吉行先生とキョーフ

 吉行淳之介先生に「恐・恐・恐怖対談」(昭和57年2月20日発行 新潮社)という対談集があります。「キョ、キョ、キョーフ、と口ごもり吃るところがミソである」と「あとがき」に書いておられますが、「恐怖対談」「恐怖・恐怖対談」とシリーズがつづいて、「今回は書名にくるしんで、結局」こうなったそうです。このシリーズはもう1冊あって、その「あとがき」にも「書名に苦労した」とか「四冊目となると手づまりになった」とか書かれています。そして、「(編集者と出版担当者が)二人で知恵をしぼって、『特別恐怖対談』というのを考えてくれた」と楽屋話をしてくれます。ぼくは、きっと、吉行さんが大好きなので、こんなことにも喜ぶのでしょう。
 だいいち、なぜ恐怖なのか。それは、シリーズ第1作目の「恐怖対談」の「あとがき」に書かれています。「この世の中にはさまざまの『恐怖』が満ち溢れている。それは『キョーフ』というようにコミカルに受止められるときもあるが、場合によってはそのほうがもっとコワイ」「笑いながらこの本を読んだ読者の背筋に、冷たい汗の粒が並ぶ、というようなことになるかどうか、ともかく沢山笑ってもらえればそれで私としては満足といえる」。
 「恐・恐・恐怖対談」のなかに倉本聰さんとの対談もあって、山口瞳先生が話題にのぼります。対談の日付は、昭和55年7月21日、赤坂〈重箱〉で、となっています。その数日後、吉行さんは来店されて、ああ、そうだ、と、おもい出したようにいわれました。「倉本聰と対談したんですが、そのとき彼が山口瞳の好きな高級洋品店といったから、名前出しときましたよ」。その対談のなかみとは...。
 山口さんが富良野に行ったときのこと。倉本さんの家からホテルに送って、その夜中、君のところへ手袋を忘れた、と倉本さんは電話をもらいます。じゃあ、明日の朝までに探しておきます、と電話を切りましたが見つかりません。「翌日ホテルへ行って、無かったと言ったんですね。山口さんはいやあ、あれはいいんです。あれは銀座のなんとかいう...山口さんのお好きな店で、高級洋品店」「フジヤ・マツムラでしょ」「そこで買った、わりに高い手袋で、大事にしてたんだけど、いやいいんです。どっか他で無くしたんでしょうって、口では言うんですけれど、しばらく無口になったりするわけです(笑)」
 それから山口さんは、小津安二郎今日出海の話をします。二人はさんざん梯子酒をして料亭に泊まり込みましたが、翌朝小津安二郎が、大事にしていた金時計が無くなった、と騒ぎます。まず、料亭の女将が疑われ、それから今日出海が疑われました。洋服や鞄のなかまで見せて、やっと無実を晴らしましたが、数日後手紙がきて、「大事にしていた金時計なんで興奮して大変失礼した。あのことは水に流してくれ。ただあの金時計はぼくが非常に大事にしていたものだから、どうぞ大切に使ってください(笑)。という話があるのです、と山口さんがぼくに言うわけですよ」「ははあ」「だからあの手袋も大事に使ってください」「(笑)」
 ところが、山口さんが東京に帰って2、3日したら、どういうわけかその手袋が絨毯の下から出てきます。倉本さんはあわてて山口さんに電話しました。「だから申し上げたでしょ、どうぞ大事に使ってください」
 「大した手袋とは思えないんですよ」「それは主観の問題だ」「とってもいい手袋だって言ったけど、いや、おっしゃるんですけど、どうも大したものじゃないような気もするんです。皮じゃなくて、毛編みなんですよ」
 マックジョージ。イギリス製のカシミヤの手袋です。セーターやカーディガンといったニット製品の会社でしたが、カシミヤだけでなくシェットランド・ウールで編まれた、素朴で味わい深い品もありました。毛編みの手袋の手のひらに、皮を貼ったのもありましたが、これは絶品でした。イギリスには、いまでもお城に住んでる殿さまがいますが、領地内を流れる川に釣りに出かけるときなんか、ひじの抜けたウールのカーディガンを着て行ったりします。
 マックジョージ。大したメーカーじゃありませんね。そこそこでした。当時の金額で、手袋なんか、大卒初任給の2割程度のものだったんじゃないでしょうか。安物ですよ。セーターだって、フランス製のカシミヤの手編み、アンヌ・マレーの何分の1かにすぎません(アン・マリーといっていましたが、これは大卒初任給の2倍から3倍。高くて、あんまりですよね)。でも、待ってください。そういうのが普通の世界って、ちょっと「キョーフ」じゃありませんか?