山口瞳さん

 ある日(といっても、30年前のことですが)、矢村海彦君が、本とりかえっこしょう、といいました。なんだか気持のわるい申し出です。
 ぼくは、本を買うとき、いちばんきれいなやつを選びます。 もちろん初版で、帯もちゃんとしていて、汚れていないものを探します。これははた目にはすごくいやらしく映るようで、カミさんは、わたしといっしょのときは本買わないで、というくらいです。ですから、本をとりかえっこときいたとき、いやな気がしました。せっかくきれいな本を選んだのに。だいいち、なんだか女の子がするようなことじゃありませんか。
 いや、そうではなくて、と彼はいいました。「水道橋の旭屋書店で、山口先生がサイン会をやっていたのです。それで、ちょっとのぞいてみたら、瞳さんともうひとりが、テーブルの向こうで所在なさげにしていたわけです。アルバイトのお金が入ったばかりで、太っ腹でしたから、2冊、買っちゃいました」。
 そのとき、取り替えたのは「酒呑みの自己弁護」(昭和48年3月30日発行 新潮社)という本でした。見返しに墨の字で、「酒は買うべし 小言は言うべし 山口瞳 印」とあります。まだ、当時、瞳さんは50歳にもなっていませんでしたが、すでに「小言幸兵衛」とか「国立のお助け爺さん」とかいわれていて、ご本人もそのイメージに合わせたのでしょう、徳利と杯ののった箱火鉢を前にして、着物姿でご隠居のような写真が、扉のつぎのページにありました。瞳さん、いや山口先生は、やつしてそんなふうにしておられたのでしょうか? いいえ、そうではありません。先生は、ほんとうに、「国立のお助け爺さん」だったのです。すくなくとも、ぼくにとっては。
 昭和48年という年は、ぼくは大学の4年目に在籍していました。それからあと4年いることになるわけですが、もちろん本人は知りません。ぼくは、コピー・ライターなんてものになりたい、とおもっていましたが、どうすればなれるのかわかりません。そこで、当時、サントリーの宣伝部から独立して、開高健さんや柳原良平さんといっしょにつくられた、サン・アドという広告会社の重役をしておられた山口先生に、アルバイトに使っていただけませんか、と手紙を書きました。便せんを何冊もつぶし、1日がかりでした。一面識もなかったのですから、ずいぶん不躾におもわれたのではないでしょうか。尊敬しているからできたことで、万一お世話になったとすれば、そのことで一生頭があがらなくなります。ぼくは、この先生ならそれでもいいや、とおもいました。返事はすぐに来ませんでした。当然でしょう。だれが考えたって、くる筈がありません。しかし、これが来るのです。それは、かたちを変えて来たのです。
 夏休みのはじめのことです。怠惰な学生は、昼寝をしていました。夜型の生活になじんでいたので、昼間はさながらドラキュラでした。毎晩が「アメリカン・グラフィティー」だったのです。午後の郵便配達が(2度ベルを鳴らしはしませんでしたが)、なにかポストに投函する音をうつらうつらきいていました。のろのろ起きあがって、ポストをのぞいてみると、郵便物に混じって1通のハガキが見えました。指先ではさんで、部屋にもどりながら眺めると、それは入社試験の受験票でした。「コピー・ライター採用試験の通知 サン・アド」。感激、というのは、きっと本人にしかわかりません(「山口瞳は男じゃないか!」)。
 8月のある日、茅場町の鉄鋼会館というところで試験を受けました。結果は惨憺たるものでしたが、ぼくは不思議に爽快でした。山口先生に、こんどはお礼状を書きました。しばらくして、週刊新潮の「男性自身」に、「才能について」と題するエッセイが載りました。それは、ぼくに対するコメントのようにも、エールのようにも見えるものでした。べつの可能性にむけて翔び立たなくてはいけないことを、それは示唆していました。そこで、いずれ自分がヒトカドのものになったとき、サントリー・オールドをさげて伺い、きちんとご挨拶しよう、とひそかに決心するわけですが...。