銀座の歯医者さん

 銀座のM歯科は、三笠会館のむかいにありました。ビルの3階で、古いエレベーターにのってあがると、すぐ共同トイレがあります。砂糖部長がむかし、歯の治療にかよっていたとき、おかあさんのほうの先生が担当でした。ある日、なぜか水道の出がわるくて、洗おうとしていた部長の入れ歯をもったまま、おかあさん先生はドアの外にでていってしまいました。部長は、いやな予感がしたのだといいます。首によだれかけをつけたまま、治療用の椅子からおりると、ドアのところまでいって、廊下をのぞきました。共同トイレの戸がひらいており、おかあさん先生が見えました。水道の蛇口からいきおいよく水がながれおちて、部長の入れ歯を洗っています。それでも、汚れがおちないのか、やおらおかあさん先生は、その場にあったブラシのようなもので入れ歯をこすりはじめました。部長は、見てはいけないものを見たような気がして、あわてて椅子にもどりました。こまったなあ、とおもいながら天井のしみを見上げていると、しばらくしておかあさん先生はもどってきました。そして、なにごともなかったかのように、入れ歯を部長の口におしこもうとしたのです。「先生、それだけは勘弁してくれ」と、部長はおもわずいうところでしたが、のぞき見なんか男の沽券にかかわります。男はハードボイルドです。だまってされるがままにしておきました。帰りがけ、用を足そうと共同トイレによってみたら、お掃除のおばさんが一心に便器を洗っていたそうです、さっきのブラシで。
 ぼくが歯が痛くなったとき、事務の銀河さんは、銀座の歯医者をいくつかおしえてくれました。どこもよさそうですが、なんだか敷居が高そうです。どうせ保険でなおすのですから、どこも料金は変わりません。だけれど、ここがむずかしいところですが、いわゆる相性というものがあるでしょう。ぼくは、いまでも、花粉症の時期に、駿河台の楽満さんまで診てもらいにいきますが、もともと楽満さんも銀座のぎょうせいビルにいらしたのです。楽満さんはさっぱりしたおばちゃんで、ぼくは好きです。山口瞳先生は、信用できるのは好き嫌いの感情だけ、とおしゃっていますが、ぼくにも多分にそんなところがあるようです。
 銀河さんは、最後にいいづらそうに、砂糖部長の災難を話してくれました。いまは、息子の(といっても、もう年輩ですが)M先生が院長です。ぼくは、なんだか、そこがいいようにおもいました。なぜって、とってもおもしろそうじゃありませんか。
 M先生は、ユーモアのあるいい先生でした。看護婦の奥様もさっぱりした方でした。なにより腕が確かです。あんなにひどかった虫歯が、ウソのようになおったのですから。ぼくの場合、たいして報告するほどのことは起こりませんでしたが、歯を削っているとき、モーターに力がなくってときどき歯に負けて止まったり、金冠をはめるとき、乾かす空気がシューッと勢いよく出なくてなかなか乾かなかったりはしました。「はい、うがいしてください」といわれても、コップに水がはいっていないことなんかしょっちゅうでしたし、大きく口を開けさせられているとき、先生が答えを求める世間話をしかけてくることもよくありました。患者のぼくをあいだにはさんで、突然夫婦喧嘩がはじまることもありましたが、こちらは目をつぶって口を開けてればいいのですから、全然問題ありません。ぼくは、歯医者にいかなくっちゃ、という声を社内できくと、おせっかいを承知でM先生をすすめました。しかし、多くの社員が治療にかよったけれど、残念なことに、だれもエピソードになるような事柄にぶつからないのです。
 数年前、ビルの建て替えで向かいのビルに移りました。今年に入ってからまた歯の具合がおもわしくなくて、地下鉄にのってしばらく銀座へかよいました。6階の新しい医院に来るのははじめてです。なるほど、移転したとき器材も新しくなって、以前のようには故障はないか、と、こんどは寝椅子に変わった椅子に横になりながら、心のなかでひとりごとをいいました。「そうなの」と、突然先生が口を開きました。「故障が多くなったのは、人間のほうさ」。 ぼくは、先生に、なにもいってませんよ。おもったことが、つい口にでちゃう年でもありません。なんとなく辻褄が合って、そのまま会話がすすんでゆきましたが、相性ってこんなものではないでしょうか。