新人教育係

 新人教育係、というのがあったわけではありませんが、たいていぼくがやっていました。あんなにつきっきりで砂糖部長にこづきまわされていたのが、何年かたって、おしえる立場になるなんて、なんかうそのようです。でも、ぼくは割合適任だったとおもっています。なにしろ、自分が新人のとき、とまどったいろんな事柄を、ただ、こうするんだよ、って伝えるだけでよかったんですから。学校の運動場で弟に自転車の乗り方をおしえたのと、まるっきりいっしょでした。
 弟は、サドルに腰をおろして、両手でしっかりハンドルをにぎって、「おにいちゃん、ぜったいはなしたらいやだよ」といいました。「だいじょうぶ。ほら、しっかり持っているから」 ぼくは、荷台の端をつかんで見せました。「だから、ひろちゃん、手の力をぬいて、いっしょうけんめいペダルをこぐんだよ」 弟は足に力をこめてこぎだしました。「おにいちゃん、はなさないでよ!」 どんどんスピードが上がります。「おにいちゃん、持っててね!」 ぼくはそっと手をはなします。弟は、気づかずに、一心に前を見て、ペダルをこぎつづけます。「はなしたらいやだよ!」 そう叫ぶ弟のこぐ自転車は、多少ふらつきながらも、まっすぐに運動場を走っていきました。
 ぼくがおしえたことというのは、ごく簡単なことでした。まず、挨拶、これが基本です。うちうちでは、いつ顔を合わせても、「おはようございます」という挨拶をします(洋品店も水商売の一種なのでしょう。辞書には、客の人気によって大きく収入が支配される性質の商売。接客業や料理屋などの類、とあります。水に流れるといって、水曜日は定休にするところもありますが、大きな意味ではデパートも水商売だったわけですね)。帰るときは、「失礼します」でした。高校に入ってすぐ、陸上部に入部しましたが、初日の練習がおわって先輩より先に帰るとき、ぼくは、さようなら、といいました。すぐだれかが呼びにきて、先輩たちに囲まれました。「いま、なんていった?」 いわれている意味がわかりません。「さようならって、いっただけですけど」 「おまえな、さようならはないだろ。失礼しますっていうんだ」 失礼しました、という言葉がおもわず口に出かかりましたが、なぐられそうでやめました。先輩に会ったときは、こんにちは、ですが、みんなの挨拶をきいていると、直立不動の姿勢をとって、早口で、コンチハッ、であったり、チワッ、であったりしました。ぼくは、いつまでたっても、ちょっと頭をさげて、こんにちは、とついいうものだから、しまいに先輩たちもあいつはほっとけといってたようです。
 お客様がいらしたら、「いらっしゃいませ」。お帰りになられるときは、お買い物があってもなくても、「ありがとうございます」。ぼくが入社したころの先輩は、いらっしゃいまし、といっていたので、ぼくもうつってしまいました。日本橋高島屋に出向したときも、ずっと、いらっしゃいまし、といっていたので、ぼくと交代に高島屋勤務になった同僚の有金君は、いらっしゃいませ、というように注意されたといいます。「ありがとうございます、が、ありがとうございました、となってはいけない。おつき合いを続けてゆく気なら、過去形にしてはいけない。それはご縁を切ることだ」となにかで読みましたが、そのへんは、ぼくが入社したころにも、もうあいまいになっていました。