O青年 その1

 吉行(淳之介)先生に、「変った種族研究」という本がある。昭和38年2月から「小説現代」に連載されて、39年12月にかけて発表された23篇が、翌年、単行本になっている。ぼくはまだ高校生だったから、いきつけの古本屋の棚でこの本をみたとき、なんだかいかがわしそうな本だな、とおもった。
 いま、ぼくの持っている「吉行淳之介全集」(昭和59年・講談社)の「別巻2」には、そのうちの15編しか収録されていない。興味を持って会ってはみたものの、意外につまらなかったり、迫っていってもなにも出てこなかった人たちが、省かれたのだろう。15人の顔ぶれをみれば、当時の社会が異端視していた「良風美俗にもとる人たち」が、ほんとうのところはどうだったのか、わかるだろう。
 「野坂昭如鴨居羊子青島幸男浜口庫之助富永一朗戸川昌子殿山泰司今村昌平加賀まりこ柳家三亀松・アンジェラ浅丘・武智鉄二高橋鐵野末陳平清水正二郎胡桃沢耕史)」
 吉行さんの取材に同行する編集者が、O青年として登場する。取材相手の人選にかかわったり、狂言まわしの役どころをつとめる。やがてO青年はO中年になり、編集長になって重役になる。ぼくがはじめてお目にかかったのはたぶん重役のときで、吉行さんの還暦祝いを探しに山口(瞳)先生とみえられたときだとおもう。だとしたら、それは昭和59年のことで、全集が刊行されている最中のことだ。これは、とおもうものがみつからなかったので、シルクの生地でパジャマをつくることになった。吉行さんのファンの方はご存じだが、ふだんの服装は地味だけれどパジャマにかんしては派手だった。還暦ならちょうど赤で派手でいいが、あんまり赤いのもなんだからワイン色にしよう、と話がまとまった。これは講談社からのお祝いだったはずで、ずいぶん高いパジャマになってしまった(ふつうの綿のパジャマで5万円だった)。
 それを機会にO重役は、ときどき、進物などをさがしにみえるようになった。もっとも、そのときは先輩がお相手していたので、ぼくなんか目にはいらなかっただろう。小柄で童顔で柔和だったが、眼がけっして笑わない。頭の回転がはやくて、的確な言葉が、はっきりとした口調で出てくるので、なんだかこわい方だった。
 平成9年。それはフジヤ・マツムラが閉店廃業した年だが、3月の下旬にO氏が奥様といらっしゃって、ご進物にネクタイを選ばれた。番頭(そんなふうには呼んでいなかったが)のぼくは、部下がネクタイを包装しているあいだ、O氏と世間話をしていたが、なぜか突然、「O青年として、吉行先生の本に出てらっしゃいましたよね」と失礼かもしれないことを口に出してしまった。O氏はにこにこされて、「昔のことですよ。吉行さんの本、お好きなの?」ときかれた。ぼくがうなずくと、「じゃあ、こんど、吉行さんの話でもしましょうか」といって、笑いながら帰っていかれた。そのときは、耳でだけうかがっておく話だな、とおもったが、すぐに葉書をいただいた。「よかったらいっしょに文壇バーにいきましょう」というお誘いだった。その年の文藝手帖の4月3日(木)の欄に、「7時。銀座旭屋、文芸書新刊のところ」とある。O氏からあらためて電話をいただくと、ここで待ち合せることになった。当日は朝から雨だった。(以下明日)。