O青年 その2

 時間前に銀座旭屋に行くと、O氏はもう来ておられて、レジのカウンターで本を袋に入れてもらっているのがみえた。数日前、O氏がはじめて上梓されたご著書をご恵贈たまわっていたので、ぼくは同じ本をもう一冊、昼休みにここで購入していた。お目にかかったらサインをいただくつもりで、それなら友人の矢村海彦君にもとおもったのだ。それで、お会いして、「じゃあ、さっそく、行きましょう」といわれて歩きだしたとき、二人とも旭屋のグリーンのビニール袋をさげていた。
 文藝手帖には、「7丁目コントアール、6丁目ばあもす」と書いてある。どちらかが池波正太郎さんの行きつけの店だが、もうどっちだったか忘れてしまった。池波さんの大好きな「常夜なべ」が二人の前に出されて、O氏はちょっと手をつけられると、「わたしは年寄りだからそうは食べられない。たくさん食べてください」といわれた。
 手帖に常夜なべの作り方が書いてある。「とこよなべ、じょうやなべ。鍋に酒を入れて、昆布でだしをとる。千切り大根(火をとおしてアクを抜いておく)をたくさん入れ、煮えたら豚肉をしゃぶしゃぶにして、大根といっしょにポン酢で食べる」
 カウンターのむこうのバーテンさんが、「いい豚肉が手にはいったときだけ、するんですよ」と笑った。「運がよかったですね」といって、ぼくも笑った。着物をきて、ころんとしたママさん(吉行さんなら、マダムという)が、「池波正太郎が好きだったから」といった。もう、すこし、酔っているようにみえた。「たくさん食べて。池波正太郎が、好きだったのよ」と、また、ぼくにいった。きっとママさんは、池波さんが好きだったのだろう。
 ぼくは万年筆を出して、ご本に署名をいただいた。二冊に署名して、万年筆のキャップをするときに、ちらっとメーカーを確かめられた(そのときのぼくの万年筆は、ペリカンMK30)。そしてぼくに返しながら、「書きよい。この万年筆はいい万年筆です」とおっしゃった(ちなみに、野坂昭如先生にサインしていただいたのもこの万年筆だったが、そのときは、書きおえても、野坂先生はじっとペン先をみつめていて、とられるかとおもった)。
 ぼくはお酒は飲めないが、はじめてつれていかれた文壇バーでビールをなめているうちに、すっかり雰囲気に酔ってしまった。O氏のところに、ひっきりなしにだれかが挨拶にみえる。O氏もちょくちょく席をたってだれかに声をかけている。どれくらい時間がたったのかわからない、「つぎに行きましょう」と肩をたたかれて、あわててママさんに挨拶をしてO氏のうしろにしたがった。
 傘をさして歩き出したらすぐつぎの店だった。こんどは、クラブのようなところで、奥のテーブルにすわらされた。 となりにひとり、中国人の女性がすわって、チャイナ服で脚を組んだ。吉行さんなら、「モモ膝3年、尻8年」の達人だからいいだろうけど、ぼくは自分の椅子に固くなって、手も足も肩幅から出さないように注意した。中国人の女性は、笑いながら、「なにもしないから安心して」といった。だいたい、それって、男のせりふじゃないか。水割りをなめているうちに、「手ぐらい握っても、いいでしょ」といって、ぼくの手をとった。手、だけですよ。そのあいだにも、いろんな人がO氏のところに挨拶に来る。かわりばんこに来る。よくみると、いずれの人も、戻りしなにちらっとぼくを見てゆく。そのときは気づかなかったけれど、あれはあの人たちが勘違いしていたのだ。ぼくは、あまりにも単純なことを忘れていた。O氏が有能な編集者だったことを。あの人たちは、出版社や新聞社の社員たちで、辣腕で知られたO氏がつれて歩いているからには、見るからにパッとしないこの男も、おそらく才能にあふれた作家のたまごであるに違いない、と勝手に思い込んだに違いない。そのときに気がついたら、ぼくはきっとずっと赤面していただろう、きまりわるくて。
 O氏は、「それじゃあ、足もとのあかるいうちに帰りましょうか」といって外へ出た。そのとき、ぼくは吉行さんの話なんかなにもしなかったのを、ちょっといぶかしくおもった。だって、そのためにお会いしたのではなかったか。
 「今夜は、とても楽しかった」別れしなに、O氏がいった。「またお目にかかりましょう」
 挨拶をして、別れてからふり返ると、グリーンのビニール袋をさげて、傘をさして遠ざかってゆくO氏のうしろ姿が見えた。ちょっと片方の肩があがったようなそのうしろ姿は、吉行先生によく似ていた。吉行さんの話をしなかったどころではない、ずっと吉行さんといっしょだったんじゃないか、とぼくはおもって、もう一度頭を下げた。
講談社文芸文庫吉行淳之介対談集・やわらかい話」に収録された「『変った種族研究』のころ」(吉行淳之介x大村彦次郎)に研究苦心のおもしろいエピソードが載っています)