鉄塔 武蔵野線3

 「鉄塔 武蔵野線」の作者、銀林みのる氏からの手紙は、誠意あふれるものでした。武蔵野線の鉄塔番号が、小説発表後に3分割されて変更されたこと。変電所の名称が仏教の聖地に由来していること。二人の少年が「原子力発電所」という一種の「他界」を目指し、鉄塔巡礼の旅に出ると見立てたこと。1号鉄塔の立つ最終地点に関しては、憧れながらも辿りつけない「光り輝く地」という含みを持たせて、「日向丘」としたこと等々、すべて率直に語られていました(そのときにはまだ気づきませんでしたが、同じときに出たC・トーマスの冒険小説「救出」にはさみこまれた栞「今月の新刊」に「鉄塔 武蔵野線」も並んで載っており、銀林みのる氏の顔写真が添えられていました)。あるいは、これは小説のネタばらしになってしまうのかもしれません。しかし、名称や地名を仏教の聖地からとったとは、だれが考えたでしょう。少年の冒険譚の裏に隠された作者の意図は、文庫解説の矢川澄子さんさえふれていません。
 鉄塔に夢中になったぼくは、あるところにこんな文章を書きました。

 「自転車のサドルを高く上げるのが夏をむかえる準備のすべて」   穂村 弘『シンジケート』
 ある日、近所の鉄塔に番号札を見つけた5年生の見晴は、「オレたちは鉄塔を辿っていけば、絶対に秘密の原子力発電所まで行ける」と、2歳下のアキラを誘います。あんなに長かった夏休みも、もう後半に入っていました。銀林みのる『鉄塔 武蔵野線』(新潮文庫・平成9年)は、こうして二人の少年がチャリンコに乗って、送電線と鉄塔を遡って武蔵野台地を駆けめぐる、永遠の一日の冒険と探検を描いています。
 本を置いたとき、自分のちょっとした変化に気付きました。いままで見えていなかった鉄塔が、やたら目につくようになったことです。それまでだって鉄塔は、同じ場所に立っていたのでしょうが、ぜんぜん目に入りませんでした。それどころか、いまでは鉄塔を見つけると、なぜかこころがときめくような気がします。
 物語の発端は、見晴が「75ー1」のプレートに気づいたことでした。私は、地図で調べて、その鉄塔のあるところまで行ってみました。そこには、「10」のプレートを付けた鉄塔が立っていました。そこから、私自身の物語がはじまることになりましたが、それは秘密です。いろんな本の読み方があって、最後のページを閉じたところからお話がはじまっても、わるくありません。昨日は少年だったのですから。

 正兼様は、物忘れがはげしくなったようです。ようやくつきとめた架空の名称の意味をお話するにも、もう興味が薄らいでいるようでした。「いまは何月です?」とたよりないことをおっしゃいます。「あなたに桜を見につれていってもらったのは、いつでした?」「あれは、もう一昨年のことになります」「あんなにきれいな桜を見たのは、はじめてでしたよ」「いろいろ引っぱりまわして、お疲れでしたでしょう」「まだすこしなら歩けたから。世田谷の桜もきれいでしたねえ」(千鳥が淵から九段を抜けて、小石川の播磨坂、中野哲学堂、それに世田谷の深沢と桜の下ばかり走って、桜新町のプラチノで一服しました。そのとき、「もっと若かったら、桜の見える家に移りたい」と90余歳の老嬢は、紅茶のカップを両手にはさんで、はにかんだ笑みを見せました)
 玄関で靴ひもをむすんでいると、「銀座のあなたのお店にお寄りしているころが、いちばん楽しかったわ」と、ぼくの背中のほうから、つぶやくようにいわれました。
 正兼様にご覧いただこうとこしらえた地図をひらくと、鉄塔は保谷市新座市の境から北に伸びて、新座市を縦断し、清瀬市の一部をなめて所沢市に入って行きます。そして、所沢市を斜めに突っ切ると、狭山市を抜けて日高市に至っています。畳半畳ほどの地図を眺めていると、なんとなく、どこかの地図と、地形が似ているような気がしました。それは、銀林みのる氏が手紙をくださったときに、聖地の地名を確認するためにひろげた、古代インドの地図でした。それを取り出してくらべると、やはり地形が似ていました。そして、銀林氏が、憧れながらも辿りつけない「光り輝く地」と含みを持たせた「日向丘」の方向に指でなぞってゆくと、古代インドの地図では、そこはガンダーラだったのです。