ある日の銀座

 銀座は、ふだん会わない人に、やたら偶然、会ってしまうところです。できれば会いたくない人にも。でも、なぜかこれが出会ってしまうのですね。しかも、フジヤ・マツムラのような15坪たらずのちっぽけな店で、どういうわけかそういったアクシデントが頻発しました。その日の不測の事態も、そのひとつでした。
 砂糖部長が、うれしさのあまり無意識にもみ手をしています。いつもへの字の口もとが、へらへらしまらなくなって、よだれでもたらしそうになっています。人を睨みつけるために付いているとしかおもえない眼が、とろけそうになって泳いでいて、おもわずぼくもつられて笑顔になっていました。
 Y氏が、大柄な奥様と二十歳くらいのお嬢様を連れてお買い物にみえたのです。ぼくは入社したばかりで、Y氏はまえに1度お見かけしていたけれど、ご家族ははじめてでした。Y氏は来店されるなり、砂糖部長の耳もとで「きょうは100万までね」とささやかれました。部長の眼が嬉々として大きく見ひらかれました。奥様とお嬢様の気に入ったものがあったら、洋服でも指輪でも、なんでもその限度内でならオーケーということです。
 まず奥様が、飾ってあったワンピースを試着されました。最初の10万円分です。Y氏はにこにこして、鏡に向かってポーズをとる奥様を眺めています。女子社員がしゃがんで、着丈つめのためにピンを打っているところでした。砂糖部長の目玉には、レジスターのように、\マークがくっきりと浮かびあがって、お嬢様になにをすすめようかと、きょろきょろしているときでした。ドアがあいて、小柄な婦人が入ってこられたのです。入り口ちかくにいたぼくは、いらっしゃいませ、と声をかけました。そこにいた人たちみんなが、なんの気なしにその小柄な婦人に眼をやりました。そして次の瞬間、ぼく以外の全員がなぜか突然、凍りついてしまったのをぼくは感じました。
 小柄な婦人は、ゆっくりした足どりで店の中央を奥まで歩いてくると、そこにいた砂糖部長に「ごきげんよう」と満面の笑みをもらして挨拶しました。砂糖部長は、真っ赤になって、「あうあう」と、おっとせいのような声をだしました。小柄な婦人は、そこでくるりときびすを返すと、微笑んだままゆっくりとドアまで歩いて、そのまま出て行かれました。すると、Y氏がひとこと、「まずいよ」とつぶやきました。額に脂汗がにじんでいます。そして、残りの90万円分のお買い物を中断すると、ご家族をうながしてそそくさと帰って行かれました。熱気をおびかけた店内は、急にしんとしました。
 砂糖部長は不機嫌でした。とろけるような表情はかげをひそめて、いつもの凶悪なワニの眼にもどっていました。「なんで、本妻さんが、あとから来たのだろう?」首をひねりました。「よりによって、こんなときにかち合うなんて」 期待にふくらんだ売り上げが、風船のようにしぼんでしまって、憤懣やる方ない様子です。とばっちりがくるかな、と身構えていると、「Yさん、今夜、うちに帰れるかなあ」と、いかにも同情しあるた口調で溜息をつきました。
 何日かして、次にY氏の小柄な奥様がみえたとき、指には以前より大きなダイヤの指輪が光っていました。だれかが「大きいですねえ」と賛嘆の声をもらしました。小柄な奥様は「5キャラット」とすました声でウィンクすると、指をふってみせました。ご主人のY氏はきまりわるそうにあとから入ってこられましたが、力なく笑った頬には、目立たないようにバンドエイドが貼ってありました。