一枚の繪の竹田氏

 一枚の繪の竹田厳道氏は、背も高く、恰幅もよくて、風貌が年をとった桃太郎のようだった。昔風の二枚目だったのだ。時間があってのんびりできるときは、椅子に腰掛けてくつろいで、いろんな面白い話をきかせてくださった。そして、どうだい、といった表情で話しおわると、「きょうの講義は、これまで」といって、ちょっと猫背で悠々と帰って行かれた。
 竹田氏は、お相撲が好きで、横綱大鵬の後援会の副会長をつとめていらした。一度、長谷川という関取をつれてみえたが、べつによくあるタニマチくささは感じられず、たださらっと応援しているといったふうだった。たいていは、自慢の大型犬を連れて歩いているみたいに見えてしまうものだけど。
 あるとき、大鵬は巨根だよ、と、いともあっさりといわれた。まるで子どもがプラモデルの自慢をしているような口調だったから、女子社員たちも顔を赤くする暇がなくて、ぼくはけらけら笑ってしまった。「千秋楽にK(そのときのもうひとりの横綱)と全勝対決したことがあったんだが」と、かまわず竹田氏は話をつづけた。「大相撲で、両者、土俵の中央でがっぷり四つに組んで動かない。Kのほうがやや有利かな、という展開でね。たがいにぐっと力が入ったとき、大鵬が」 といって、そこで竹田氏はきいているみんなをぐるりと見まわした。「Kの耳もとで、おれのほうがでかい、とささやいた。それでおもわず力が抜けて、Kは土俵を割っちゃったんだよ」。みんなおかしくて笑い転げた。竹田氏はにやっとすると、満足そうに椅子から立ち上った。そのとき、ドアがあいて、ひとりの年輩のご婦人が入ってこられた。
 竹田氏は、その小柄なご婦人に気付くと、一瞬にして笑顔が消えて、金太郎のように真っ赤になった。口が、きつく一文字にむすばれた。ご婦人はH氏の夫人であり、竹田氏とH氏は因縁の間柄だった。しかも、H氏は大鵬後援会の会長でもあるので、単純な頭のぼくには、そんなお二人が大鵬関を間にはさんで、並んですわることもあるということがよく理解できない。それが大人というものか。
 H夫人も竹田氏に気がつくと、そこに立ったまま表情が厳しくなった。どれくらいの時間が流れたのだろう。睨み合ったまま立ちつくしていたお二人は、どちらともなく歩き出すと、店の中央ですれ違ったが、お互いにもう相手には一瞥もくれずに、竹田氏はドアから手をふって帰られ、H夫人はなにごともなかったかのようにお買い物をはじめられた。
 ドアは厚い透明のガラスの板で、天井までとどく金属のフレームごと、イギリスから取り寄せたものだった。DIPLOMATとフレームの隅に彫ってあった。ドアに描かれていた店の古い時代のマーク(赤いリボンを付けたスコッチテリヤだった)を消したあと、ペンキ屋の小山さんが金文字で店名を入れ直すまでのあいだ、ドアがあいているものと勘違いしてよく人がぶつかった。ガラスは厚いから割れるようなこともないが、ぶつかれば痛いだろう。H夫人は、入り口のショウウィンドウに飾った商品をよく見ようと、かがんでのぞくような格好で頭を下げられた。とたんに、ごつん、とにぶい音が響いて、砂糖部長の顔が真っ青になった。おでこにこぶができた。H夫人は、それでもなにごともなかった顔で進物の品を包ませると、丁寧にお礼を述べて帰って行かれた。
 後日、そのことを竹田氏におはなしすると、「それで怪我はなかったんだね」と椅子からちょっとのり出して、心配そうな顔をされた。ぼくは、ええ、とうなずいた。「それならよかった」 といって、安心した様子で椅子に深くすわり直したオールドボーイは、すぐに無関心を装ったが、やはり桃太郎に似ておられた。