ぎょうせいビル

 ぼくにとって、花粉の時期は地獄の季節です。
 花粉症は、体内のセキュリティー・システムが過剰に反応して、タバコを喫ったらスプリンクラーが作動したというようなことです。マッチに火をつけただけで天井から水をまかれたら、ちょっとたまりませんよね。でも、実際にそうなのです。蚊を一匹退治するのに、バズーカ砲を用いたとしたら、これはやりすぎでしょう。けれど、それにちかいことが、体内で起こっているのです。
 くしゃみ、はなみず、はなづまり、これが花粉症につきものの症状です。これは、ほんとにつらいです。そして、ちゃんとした治療を受けなければ、これらの症状が自然に治るなんてことはまずありません。おまけに、花粉がふれた顔の皮膚が、赤くただれることもあるのです、ひどい年は。
 毎年、その時期になると、銀座7丁目のぎょうせいビルの2階にある、楽満さんという耳鼻科の先生のところにかよっていました。 治療は、何種類かの薬液を、ノズルの先から鼻のなかに噴霧して、ながい綿棒でなにか薬を鼻のなかに塗りつけます。それから、薬液をつめたガラス管の先の二股を鼻の穴にあてて、気化して霧になって昇ってくる薬液を、砂時計を見ながら3分ほど吸い込みます。名前を呼ばれて、ひととおり終わるまで、5分とかかりません。出勤前に寄っても、十分間に合います。あとは、朝晩、きめられた薬をきちんとのむだけです。これだけのことですが、やはり行くまでがけっこうおっくうなんです。めんどくさがって、一日延ばしにしていても、結局、いやでも行くはめになるのですが。そして、いざ治療してもらうと、てきめんに症状が軽減して、なんでぐずぐずしていたのだろう、と、いつもわれながら不思議な気がしました。
 その年も、ずるずる行かずにがんばっていましたが、とうとう決心して楽満さんに行くことにしました。しかし、ぎょうせいビルに行ってみると、楽満さんだけでなく、2階にあった内科や眼科もなくなっていました。ぎょうせいという会社はいちばん上の階にありましたが、あとは資生堂が全部の階を使っていました。廊下で、とおりすがりの人にたずねてみました。それはぎょうせいの社員の人で、移転先を知っていて、親切におしえてくれました。2階ごと、そっくりお茶の水に移っていたのです。けれど、お茶の水では、出勤前にちょっと寄るというわけにはいきません。銀座にあったから間に合ったのです。
 仕方なく、休みの日に近所の耳鼻科に行くことにしました。耳鼻科は楽満さん以外にかかったことがありません。受付に声をかけると、「どうしました?」 ときかれました。「どうも花粉症のようなんですが」とぼくはこたえました。待合室は人でごったがえしています。なかなか順番がまわってきません。1時間ちかく待たされて、ようやく名前を呼ばれました。
 さいしょに「片方の眼をかくしてこの文字を読んでください」といって、男の人が壁のスクリーンの小さい文字を棒でさしました。それから、おばあさんの女医さんの前にすわらされると、また「どうしました? 」ときかれました。「花粉症のようなんですけど」とぼくはこたえました。女医さんは、ぼくの眼を診て、「あまり赤くないけれど、かゆいの?」 とききました。「いいえ、眼はかゆくありません。鼻はつまってますけど」。 女医さんは急にうれしそうに笑いだして、「だーれ? この方の受け付けしたのは」とおかしそうにいいました。「あなた、ここは眼科よ。耳鼻科は外の階段で2階にあがるの。主人がやっているの」まだおかしそうです。「検眼もしたし、カルテもこしらえたけど、料金はいりません。こんど、なにかで眼科に用があったら、診察券つかってね」。
 2階にあがると、耳鼻科はがらがらでした。ぼくは、5分後には治療もすんで、やれやれとおもいながら階段をおりてきました。