銀座花祭り

 1987年(昭和62年)の「銀座百点」が手もとにあります。本棚の掃除をしたら、出てきました。7月号で、No.392とあります。掃除を中断して、すわりこんで、ページをめくりました。これだから、なかなか掃除がはかどりません。
 目次をひらいてみると、なつかしい名前が並んでいます。戸板康二色川武大池波正太郎半村良吉行淳之介永井龍男(目次に出てきた順)。大好きな作家ばかりですが、みなさんもういらっしゃいません。橋の下を水がたくさん流れた、という表現があるそうですが、まったく気づかないうちに、ずいぶん時間がたってしまいました。
 この一冊が残っていたのは、ぼくの写真が載っていたからです。載っているといっても、大勢のうちの一人ですが、赤いチューリップの花びらをむしって、ハートのかたちをこしらえています。ちょうど、手をのばして、ハートの上にむしった花びらを落しているのがぼくです。
 銀座みゆき通り100年祭記念として、その年はじめて花祭りが開催されました。富山県から取り寄せた五色のチューリップで、アスファルトの上に花のじゅうたんをこしらえるというものです。みゆき通りに面した店の社員が駆り出されて、祝日出勤させられたので、みんなぶつぶついいながら花びらをむしりました。白いチューリップは、ふれればすぐに花びらが茎からはなれます。赤や黄色の花はまあまあです。紫がかった花は、なかなか花びらが取れなくて、厄介でした。それでも、ふだんは挨拶程度しかしたことのない近所のお店の人たちと、協力して花のカーペットをつくることで、けっこう仲良くはなしをする機会がもてたのですから、こういう催しもわるくありません。いっそのこと、通行人のみなさんにも手伝ってもらえばいいのに、といいあいました。できあがった図形をただ眺めるより、参加したほうがきっと面白いでしょう。
 朝の9時から作業にかかりましたが、ずいぶん手こずって、午後1時からのセレモニーにようやくまにあいました。ボランティアでしたが、記念のTシャツと、サンバイザーと、折り詰めの弁当が配られました。折り詰めの弁当を食べていると、「社長がなんだか沈んでる」といって、釜本次長が事務所からおりてきました。社長は、朝からはりきって、ラフな格好でカメラを持ってとびまわっていましたが、そういえば、いつのまにか姿がみえなくなりました。「4階ホールの窓があいていたので、上から写真を撮ろうとあがっていったら、どうも役員たちが盛装してパーティーをはじめるところだったらしい」「それで、どうして沈んじゃうんですか」「そりゃあ、社長仲間のみなさんが、きちんとした服装で集まっているところへ、普段着みたいな格好でとびこんでいったら、きまりわるいじゃないの」「はあ」「事務所にこもって、新聞じっとみつめるくらいいじけても、不思議じゃないさ」「繊細なんですね」「ほめてるの?」「むずかしくて、よくわかりません」。
 1回だけだとおもった花祭りは、翌年もおこなわれました。翌年からは、花びらをむしる作業は、路上はやめて、泰明小学校の校庭を使わせてもらうことになりました。雨のときは、体育館のなかで作業します。チューリップを手配してあるので、雨天中止はできません。じっさい、雨のなかでも花のカーペットをつくったことがあります。
 その2回目のとき、ぼくは校庭からソニー通りの店の角まで、葉のついた杉の枝のいっぱい詰まった箱を運びました。立山の杉だとききました。花びらのはいったポリ袋をさげてゆくより、なんだか男らしいようにおもえました。そして、みんなが花びらをまくまえに、図案の周囲に短く切った杉の枝を置いていきました。段ボール箱から、両手ですくいだして、所定の場所にふちどりをこしらえます。なんどもなんども、すくいだしては並べました。杉の葉の青いにおいが鼻をつきました。その晩、風呂をでてから、くしゃみがとまらなくなりました。カミさんに、杉なんか人にまかせておけばよかったのに、としかられました。花粉暦元年。ぼくの花粉症は、そのときからです。