I氏とその女性

 I氏は、ちょっと若いときの仲代達矢に似ていて、背が高く、からだもがっしりしている方だった。胸のあたりまでシャツのボタンを外しているので、胸毛が見える。アルコールが入ると色白の顔が真っ赤になったが、胸毛のはえた白い胸まで赤くなった。この仲代達矢が赤くなると、仁王様のようにも見えた。
 いつも美人をつれてこられたが、どの人もバーかキャバレーのホステスさんだった。ご自分は椅子にすわって、むっつりとつれの女性が試着するのを眺めている。眼が大きいので、ふつうにしていても、ぎょろり、といった感じになる。店の女子社員のなかにも、ファンがいたのではないか。無口で、あまり話はしなかったのではなかったか。 ワンピースでもスーツでも、なんでも女性が気に入ったものを買ってあげていた。
 その夜、いっしょに来た女性は、いままでのなかでとびきりの美女だった。I氏は、いつもより、鷹揚に見えた。鎌崎店長は、揉み手をしながら、ちらちらと女性の顔をうかがった。やはり、きれいだとおもって、つい眼がいってしまうのだろう。女性が試着室に入ったとき、店長はI氏の顔を見て、眼をみひらいて見せた。もともと細い眼だから、顔ごとみひらいた。I氏は、まあね、という顔をした。たいしたことはないよ、という態度だった。
 その女性の修理が上がると、鎌崎店長は、聞いてあったつとめ先のクラブに自分で届けにいった。もう一度、顔だけでも見たかったのかもしれない。I氏がつぎに寄ったとき、ちゃんとお届けしておきましたよ、と自慢げに店長はいった。
 それを聞くと、I氏はむっとして、おれが直接渡すつもりでいたのに、余計な真似をするな、とひどく怒った。すぐにでも取り返して、おれの会社に持ってこい。そういって、そそくさと帰っていった。
 鎌崎店長は、あわててクラブに飛んでいって、その女性にそのことを話した。社長さんが自分で渡したがっている、と説明したのだろう。女性は、ふふん、そんなことだろうとおもったわ、といって、品物を返してくれた。店長は、ああ危なかった、といってもどってきた。
 あれはね、買って上げたのに、いうことをきかなかったんだね。あれくらい美人なら、蹴ったっておかしくないもの。それなのに品物が届いたから、すこしは腹のある男だとおもっていたのに、取り戻しにきたからせせら笑ったのさ。会社に届けろ、といったって、サイズのあるものを、だれにやる気なんだろう。
 品物はI氏の会社に届けたが、I氏はぷっつり見えなくなった。その分の代金も支払われないままだった。請求書を送っても、なしのつぶてで数ヶ月がすぎた。 直接請求書を持っていって、受け取ったしるしに判をもらってくることになった。こういうとき、なぜか行くのはぼくだ。
 ぼくは、九段の靖国神社近くのその会社を訪ねた。細長いビルのなかにあった。ドアをノックしてなかに入ると、入り口のそばに椅子があって、何人かの人がすわっていた。面会にきた人たちのようだった。ぼくは、一人しかいない事務の女性に声をかけた。もう一人、社員かどうかわからない男性が机にすわってこちらを見ていた。
 先にきている人たちは、ただ黙ってすわっている。ぼくも並んですわったが、正面の例の男性は、机の上にひじをついて拳を握り合わせ、その上にあごをのせてこちらを見ている。サングラスをかけているため、表情がわからない。ぼくを観察しているようにも見えるし、眠っているようにもみえる。ヤクザだろうか。はなはだ気持がわるい。この会社もその傾向があるのだろうか。
 しばらくしてから、ぼくの名前が呼ばれた。ほかの人より先でいいのかとおもったが、まわりに軽く会釈して社長室に入った。I氏が、ひろい社長室の大きな机の向こうにすわっていた。ぼくは挨拶して、請求書を渡した。わかっているよ、毎月送ってきているから、とI氏がいった。それで、とぼくはいった。会社からお願いなのですが、請求書をちゃんとごらんいただいているという証明に、判かサインをいただきたいのですが。とたんに、馬鹿野郎! と大きな声が響いた。机の向こうから、立ち上がったI氏が、ゆっくりとぼくのほうに近づいてくる。ぼくは、たじたじとして、すこしずつうしろに下がった。真っ赤になって、仁王様になった仲代達矢が、握りこぶしをつくってぼくに迫ってくる。ぎょろっとした眼まで血走っている。ああ、これはぶんなぐられるかな、とおもった。下がった先が壁で、もうあとがない。目の前に、胸毛の胸が迫った。あわや、というときに、I氏の絶叫するような声が轟いた。そんな、ヤクザ者のような真似はするな! (どっちが?)
 ぼくは、そのあと、どうやってその部屋を脱け出したのか、ぜんぜんおぼえてない。