大阪の川中さん

 昭和53年という年がどんな年だったか、おぼえていますか?
 ぼくはこの年、正月早々、出張で大阪球場のそばにあるビジネスホテルに宿泊していました。
 前年の暮に大阪支店の社員が大挙して退職してしまい、新年が明けたら早速募集をするから、その新人たちが慣れるまで手伝ってこい、と砂糖部長からいわれました。 いや、実際の言葉は、「きみ、行って、応援してくれないかなあ」という婉曲ないいまわしでしたが、顔には命令とはっきり書いてありました。
「どれくらい行っていればいいのでしょうか?」
「そうね、1回の募集できまればいいけど、そうでなければ、きまるまでかな」
「はあ」
「ぼくも昔、札幌支店に応援に行かされたが、半年いたかな。冬なんかほんとに寒くってね。銭湯行ってもどってくるでしょ、手ぬぐいが板みたいに凍っちゃうの。眼の表面の涙も一瞬に凍って、まばたきするとパリンて割れて、景色にひびが入って見える」
「...?」
「その頃は、サッチョンといって、単身赴任の札幌チョンガーはもてたのよ。東京の人が珍しくって、東京から来たっていうだけでもてたな」
「部長もですか?」
「きみは、案外、失礼なことをきくね。空くじなしでもてたんだよ。で、半年まではかからないだろうが、いちおう、3カ月は覚悟するんだね。札幌みたいに寒くないから、よかったじゃないか」
 はじめて滞在した大阪は、雪こそめったに降らないだけで、けっこう寒い土地でした。支店は難波高島屋2階のサロンルシックにありました。当時は、まだ外国ブランドのブティックも少なく、正面玄関から入ってすぐのエスカレーターで2階にあがると、フジヤ・マツムラコーナーが特選売り場に大きな面積を占めていました。
 高島屋の特選売り場に「サロンルシック」と命名したのは、フジヤ・マツムラの先代でした。まだ、舶来品(という言葉も死語になりましたが)と呼ばれる外国製品の輸入がむずかしかった時代のことで、それは大手のデパートでも同様だったようです。そこで、戦後いち早く舶来品を手がけていたフジヤ・マツムラに白羽の矢が立ったわけで、特選売り場に出店することになりました。ですから、大げさにいえば、当時のサロンルシックは、そのまま全部がフジヤ・マツムラだったことになります。しかし、ぼくが大阪に手伝いに行かされたこの頃は、はっきりいってもうその使命をとっくにおえて、ただべんべんと日を送っている年老いた巨象を見るようでした。 
 となりにブシュロンの売り場がありました。フランス製の宝飾品を、たった1台のガラスケースに展示して販売していました。現在のブシュロンをご存じの方が見たら、おそらく泣くでしょう。ビロードの飾り台に、せいぜい15〜6点ほどの貴金属しか並んでいませんでした。
 このブシュロンのたった一人の男性社員が、「えっらい暇やないか」といって、毎日ぼくのそばに寄ってきておしゃべりします。1月2月のデパートは、特に特選売り場はほんとに暇でした。しかし、暇なときのどうでもいいようなおしゃべりが、じつはけっこう商売に役立つことがあるのです。もちろん、全部というわけにはいきませんが。
 いまでもおぼえているのは、教えてもらった高島屋の符丁です。昔、呉服屋だった名残りで、古い符丁がまだ生きています。トイレは仁久(じんきゅう)、食事は有久(ありきゅう)、万引きは川中(かわなか)、という典型的なものは、いまでも日常使われています。「きょうは、川中さん来てはるから、気いつけてな」という具合に使います。しかも、おどろいたことに、大阪の万引きの人は面が割れている(顔をおぼえられている)のに、平気で仕事をしに来るのでした。買い物に来ているなら、万引きの前科があってもお客さまです。しかし、そのお客さまが、いつなんどき、万引きに豹変するかもしれないのですから、これは守るほうも必死です。
 スカーフを見せて、といわれて、テーブルの上にスカーフを何枚かひろげました。あるブティクの女性社員の話です。お姉ちゃん、そっちのも見せてんか、といわれ、なんだか危なそう(ヤバそうやんか、と実際にはいいました)とおもいつつ、かがんでケースのなかから取り出そうとしました。その間、相手が、眼をはなすとそっと手を伸ばすので、盗られたら大変(やられたらかなわん、と実際にはいいました)、とおもってチラチラ手の動きを追っていますと、結局なにもしませんでした。気にいったのないわ、といって帰って行ったので、ああよかった、とほっとしながらスカーフを数えてみると、なんと数が足りません。引っ張った手のほうはおとりで、もう片方の手でサッと盗ったのでした。「やられたあ!」といって(これも実際は、いてまいやがった! という言い方をしました)彼女は笑い出しました。笑うしかないときってありますね。川中さんというのは、はじめて万引きで捕まった人の名前です。
 川中さんは、出来心なんていう甘っちょろいものでなく、職業として万引きしに来るのでした。万引きした品物を買い取る、専門の業者もいたようです。一度など、川中組織のボスというか元締めのような人が、奥さんと現れました。これも多くの社員は相手がだれかよく知っているのですから、なんだかおかしいですよね。市場調査、言い替えれば下見に来るのだそうで、あの売り場が狙いやすい、なんてことを手下にアドヴァイスしていたのでしょう。上下白のスーツにソフトをかぶって、わざと目立つように歩いていました。
 ぼくが大阪にいたのは2カ月ほどのことでした。さいわい、川中さんには遭遇せずにすみました。東京にもどると、砂糖部長が「なにか勉強になったか?」とうれしそうにきいてきました。質問の意味はよくわかっていましたが、優等生の答えなんかしないのがぼくです。面白いんですよ、といって嬉々として川中さんの話をしました。砂糖部長は、駄目だこりゃ、というように、大きな眼をさらに大きくむきました。ぼくの昭和53年は、そんなふうで、けっこうぼく的には波瀾万丈だったのです。
(ここからは、おまけです。 トカケニテヤスウリメ。これはなんのおまじないだかわかりますか? これは高島屋が使っていた数の符丁です。トが1でカが2、ケが3といった具合に、順に1から10まで並んでいます。この片仮名には、それぞれ対応する漢字があるのですが、教えてくれた人も全部は知りませんでした。ただ、4を表すニが仁、8を表すウが有だということは、たいていの人が知っています。さきほどの仁久で、久という字は「々」のかわりです。すなわち、仁仁。仁は4ですから、44。シーシーでシッコ、トイレとつながります。同様に、有有は、88。八十八。米。食事、といった按配です。 ぼくは、すぐに、仁久いってきます、とか、有久いってきますといって、得々として大阪になじんだような気になっていました)