有金君 その5

ーー辰野(隆)さん、僕のリアリズムはこうです。つまり紀行文みたいなものを書くとしても、行って来た記憶がある内に書いてはいけない。一たん忘れてその後で今度自分で思い出す。それを綴り合わしたものが本当の経験であって、覚えた儘を書いたのは真実でない。(「当世漫話」)
 これは内田百間が、辰野隆(註、仏文学者。東大名誉教授。芸術院会員)との対談のときもらした、いわば創作の秘密である。秘密といってしまうと、ちょっと大袈裟かもしれない。なぜなら、たとえ百間先生の秘密を知ったとしても、なかなか余人には真似のできることではないのだから。
 有金君は、以前彼について書かれたこと(註、2004−12−23、「有金君」参照)に感心して、「よく覚えていましたね」といった。「自分でも忘れていたのに」。
 ぼくは、「うん、記憶力が抜群なのさ」とこたえておいたが、これはある程度本当で、頭のなかの索引のようなものをめくれば、その記憶のページに簡単に辿り着けるのである。ただし、百間さんを気取るわけではないが、自分で思い出した事柄が、経験そのままであるかどうかはわからない。というのは、ぼくの記憶の瓶のなかに沈めた出来事が、ちょうど葡萄がいつしかワインに変わるように、口当たりのいい別のものに変化しているかもしれないからだ。いや、かならずや変わっているにちがいない。すっぱいだけの現実も、芳醇な、馥郁たる真実に化けているように見える。
 有金君が運転して名古屋市内を走っていたとき、運転席側のガラス窓を閉めようと、ドアの内側に付いているクランク(昔はパワーウインドウなんかないから、手でいちいちクルクルまわしてガラスを上げ下げしたよね)をまわしはじめたら、ポロリとクランクがドアから取れた。有金君は一瞬、取れたクランクを指でつまんで呆然とした。そして、信じられないというように、ぼくの鼻先で振ってみせた。
 そういうときにかぎって雨が降ってくる(It rains cats and dogs.)。自分たちは濡れても平気だけれど、商品の入ったトランクが濡れたら大変だから、修理工場を探してあたふたと駆けずりまわった。電話帳で調べて電話をかけて、何度も場所を確かめながら、知らない町を行ったり来たりした。ようやく工場に辿り着き、そこでドアの内張りを剥がして結構大掛かりな修理をしてもらっているあいだ、工場の屋根の下で雨をよけながら、なんとなく肌寒くてポケットに手を突っ込んで、二人して空を見上げていたのを思い出す。
「大阪支店の柳葉さんと京都をまわったときに、比叡山に登ったんですよ、車で」
 足もとの小石を蹴りながら、有金君がいった。
「初日から売り上げがよくて、これ以上稼いだら次回に組まれる予算が大きくなって、きっと大変なことになると意見が一致したんです」
「それで比叡山に登ったの?」
「ええ、柳葉さんも登ったことがないっていうから、行楽気分で行っちゃいました」
「ずっと前に釜本次長と京都まわったとき、ぼくらは植物園に行ったよ、時間つぶしに」
「行きに山道でカーブ切ったら、カランカランて、タイヤのホイールが転がる音がしたんです。あれっとおもったけど、急な坂道で停まれないし、ほかの車のような気もしたので、そのまま頂上まで上がりましたが、駐車場で見たらやっぱりないんです。それで降りるとき、落としたあたりで探しましたが、見つかりませんでした」
「だけど、ホイールって、なくても支障ないんでしょ?」
「ええ。でも、1個だけないのは特に目立って、すぐバレちゃいそうじゃないですか。鎌崎店長がたまに乗るから、そういうの見つけたらうるさそうだし」
「全部取っちゃえばよかったのに。それなら目立たなくて、なんか変だけど、気のせーかって」(こんなしょーもない会話覚えていて、どこが芳醇な、馥郁たる真実やねん!)
 その工場では、あんなに手数のかかった車の修理代を取らなかった。そして愛想のいい工場長らしい人が現れて、「一応点検しておきましたが、特に問題ないようです。我が社の車にかぎって、おっしゃるような箇所が壊れることは、絶対にないことになっておりますから、ひとつよろしく」といった。
(註、ロールスロイスの伝説というのがある。アラブの石油王がロールスロイスを買ったが、すぐに灰皿が一杯になったので、困って車ごと灰皿を取り替えた、というのが買った側の伝説。売った側にまつわるのでは、こんなのがある。ロールスロイスに乗って砂漠だか荒野を走っていたら、急に具合がわるくなって止まってしまった。なんで砂漠や荒野なんだか理解に苦しむが、まあ、とにかく、困ってロールスロイスに電話した。やがて、遠くのほうの空から爆音が近づいてきたかとおもうと、やおらヘリコプターが舞い降りてきて、整備服にサングラスをかけた男たちが現れた。そしてワッと車にむらがると、あっという間に修理して飛び立っていった。もう一度、ロールスロイスに電話をかけて、お礼をいおうとすると、相手はそれをさえぎって、ロールスロイスは絶対に故障しません、といって電話を切った)。
(もうちょっと、つづく)