有金君 その6

 有金君は、自動車外商のあとしばらくして、うちに泊まりにきた(註、例によってだらだら長いだけですから、ご多忙の方は、ずっととばして、「その晩」からお読みください)。
 ベージュに塗られた鉄のドアをあけると(隣りの甘木の住んでいる号棟のドアはブルーだった)、ちっぽけな玄関がある。靴を脱いであがると、10畳ほどのフローリングの床がひろがり、左手にキッチン、右手にトイレと洗面所、そして浴室があった(トイレには、綿貫君がお祝いにくれた、ママにお尻をぶたれているピーター・ラビットの絵が飾ってあった)。フローリングの向こうの部屋は、ベランダに面して6畳と4畳半が隣り合っていたが、しきりの戸を外して、絨毯を敷いてワンルームにしてしまった。これで家賃は月4万8千円。民間の半額以下だった。部屋は11階で、ベランダに出ると、眼下に小学校の校庭があり(「うるさいぞ小学生! いつまでも遊んでないで、早くおうちに帰っちまえよ」)、その向こうに隅田川(ポンポン船がときどき通った)、そしてさらに向こうを荒川が流れていた(ぼくは古い友人に、うちは山の手じゃなくて川の手だよ、と威張った)。
 ライフスタイルなんて、いつごろからいわれはじめたのか知らないが、カミさんは好みのはっきりした女で、なにより統一感を重んじた。選んだ家具はすべてパイン材の白木で、金具を使わないアーリー・アメリカン風だった(カミさんがアーミッシュ風のパッチワークにはまっていたときで、だからうまい具合にぼくの好みとも合った)。テーブルも椅子も、カップ・ボードもチェストも、それから洋服ダンスやチェストの上の鏡さえ、みんな同じメーカーのパイン材の白木だった(本棚は同じ材質のがなかったので、カミさんは檜の無垢の厚い板を使った組み立て式の本棚を購入した。いま、こんなのはお目にかからない)。ぼくは、浅井慎平さんのCanonのカレンダー(商船三井のアルバイト仲間の田西君が、苦労して手に入れてくれたもの)を壁に掛けたが、つまりそれが似合うような部屋だったわけだ。このカレンダーは、それから9年、ぼくらが引っ越すまでそこに掛かっていた(ぼくは、毎月、その役に立たなくなったカレンダーをきちんとめくって、季節に合った写真を楽しんだ)。
 ぼくは、家にいるときには、TシャツにGパンで過ごしていた。近所を歩くときはゴムのビーチ・サンダル、出かけるときはケッズの白のズックをはいていた。そして、すこしばかり遠い月1万6千円の駐車場には、中古のゴルフ・ヂーゼルが駐っていた(この衝動買いした雨蛙色の車のことは、あらためて書こう。有金君は、先に車を取りに行って、銀座まで迎えにきた)。こんな生活をしていたサラリーマンのぼくの月給は、16万5千円だった(も一度いうが、昭和58年のことです)。
 有金君は、部屋を見るなり、いかにもぼくらしい感じの部屋だといった(だから、カミさんのアレンジなんだってば)。そして風呂から出ると、持参のインド綿のパジャマに着替えて、パンジャブ地方から来た留学生のような顔をしてテレビを観ていた(このインド綿のパジャマの柄ちがいの新品を、カミさんはプレゼントされて、気に入ってボロボロになるまで着ていた)。
 その晩、乾杯したビール以外に、カミさんがどんな手料理で有金君をもてなしたのか、ぜんぜんおぼえていない。しかし、想像するのはたいしてむずかしくない。なにしろカミさんは、それまで料理なんかしたことがなかったし、習いにも行かなかったから、レパートリーが貧弱だったのだ。貧弱というのは、いい言葉だ。なんたって、つくれるものといったら、3つくらいしかなかったのだから(困ったら外食すればいいさ、というのもライフスタイルかな)。
 いま、思い出してみると、まずカレーライスが第一に挙がる。これは、まあ、ぼくにだって出来る。つぎに、コロッケ。それから、ハンバーグ。以上! あとはアドリブで、いきあたりばったり(だれかぼくと同じ境遇で、1週間が7日あるのがうらめしい、とおもったことはありませんか? 3種類のメニューが順繰りに出てくると、1週間のうちに3回食わされるものがあるんですよ。ところが、そういう人にはわるいけど、ぼくはカレーとコロッケとハンバーグが大好きなんです。ぜんぜん、苦にならない。毎日カレーでもオッケーです。そうでなかったら、カミさんのレパートリーがふえるまで、きっとあなたみたいにとても気の毒な存在だったにちがいない)。
 有金君に、あの夜、なにを食べたか、きいてみるのも、おもしろいかもしれない(それにしても、読み返したらカッコだらけで、カッコわるい文章だな)。
(まだ、つづく)