梅ちゃん その3

 梅ちゃんは、東京オリンピックの前の年に生まれた。東京オリンピックは1964年のことだから、ぼくが結婚した84年には、まだ21歳だったことになる。埼玉の高校を卒業して、大手のパン屋のチェーン店に入社した。製造部門ではなく、お店の販売のほうだった。 勤務地は大宮だったが、駅ビルのなかの店だったと聞いた気もする。
 梅ちゃん、つまり梅島君は、そこに2年間勤務していた。しかし、だんだん仕事に不満をおぼえはじめていたので、前からそれとなく考えていたように、できることならもっと都心に出て働きたい、とおもうようになった。そこで、新聞に舶来洋品店の募集広告が載ったとき、おもいきって代休をとって、内緒で面接を受けに来た。
 梅ちゃんは、パン屋でも、真面目な社員だった。朝一番に出社して、夜は最後に店を出るのが梅ちゃんだった。本来なら店長がやるべき店の戸締まりや、夜間金庫に当日の売り上げを投函するのは、いつも梅ちゃんだった。先輩たちは、梅ちゃんの人のよさにつけこんで、休みを交替させたり、代わりに残業させたりした。そのくせ、梅ちゃんが代休を申請すると、なんだかんだ理由をつけて、なかなか取らせてもらえなかった。おかげで、梅ちゃんの預金通帳はみるみるふくらんで、のちに現金で購入したトヨタソアラの半分は、そのとき貯まったお金だった。
 しかし、このとき、面接を受けて銀座の店に合格してみたものの、勤め先のパン屋では従業員が減るのは困るといって、辞めさせてくれなかった。だから、そのとき採用されただれかが一身上の都合で退社して、欠員をまた募集することになる半年後まで、梅ちゃんの入社はお預けになる。
 2回面接を受けて、2回合格して採用されたのは、あとにも先にも梅ちゃんだけである(ぼくは、高校入試のとき、すべり止めの高校に入学金を納めておかなかったので、本命が落ちて行き先がなくなって困ったことがある。担任に付き添われて、そのすべり止めの高校に頼み込みに行くと、高校の副校長が「二次募集があるからもう一度受験してはいかが」といってくれた。「二次は競争が熾烈ですが、1度受かっているなら大丈夫でしょう」。同じ高校を2回受けて2回受かった人というのは、いったいどれくらいいるのだろう。副校長の柴田先生には数学を習うことになったが、先生はぼくを見るたびニヤリとされた。その後の人生でなんでも2回繰り返す癖は、このときついたのかもしれない)。
 梅ちゃんは、まだ高校生の雰囲気が抜けきらず、赤ちゃんのようなつるつるの肌ときちんと刈り揃えたまっすぐの髪で、ときおりコンタクトレンズが動いてあらぬ方向に目玉を動かす奇癖はあったけれど、いつもニコニコしている素直で純朴な青年だった。身長174センチ、体重58キロ。ちょっとジャニーズ系のイケ面だった。
(つづく)