赤岩さん その1

赤岩虎治氏(仮名)は株屋さんだった。
 株屋といっても、証券会社の社員ではない。株の売買で利益をあげて生活する人である。当時は、そういう株屋さんがずいぶんいて、けっこう羽振りがよくて、みなさん銀座でもいい顔だった。
 赤岩氏は、有金君の顧客だった。「有金さん、いる?」といって、せっかちな様子で入ってきて、いないとわかるとすぐに帰ってしまった。
 髪の毛の乏しい肉の付いた大きな顔(いつも、むくんだような赤黒い顔をしていた。アレルギーかもしくはなにか病気をもっておられたのかもしれない。とくに、真っ赤に腫れ上がったような日には、ほとんど瞼がふさがって、スリットのような隙間から無理に透かして見るようにした)が、直接肩の上にのっており、しかもなで肩でずんぐりむっくり、足は短くお腹がつき出ている。そして、概してどた靴で、いつでもアクアスキュータムのレインコートを着て、黒い皮の鞄をさげていた。なんだか、夏でも、レインコートを着ておられた印象がある。
 その鞄から、展示会の案内の封筒を取り出した。
「有金さん、あたし、忙しくて展示会には来られそうもない。だから、ワイシャツをつくることにしたけど、きょうでも展示会並みの1割引にしてよ」
 有金君は、それをきいて渋い顔をした。赤岩氏は、ちょっとずるそうな笑いを浮かべると、
「いいじゃないの、そんな冷たいこといわないで。いつもひいきにしているんだから、そうしてよ」
 といった。
 1週間も前から展示会扱いでは、社長がいい顔をしないのは有金君だって承知している。それに、こういうことを認めると、展示会がすんだあとに来ても、1割引を主張しだすだろう。
 有金君は頭をかきながら、「特別ですからね」と念を押して、ワイシャツ生地をひろげてみせた。赤岩氏はとたんにうれしそうな表情に変わると、白の地紋のある生地ばかり数点選んだ。そして、封筒の裏に、日付と生地の柄と1割引の金額を書きこんで、
「こういうことは、ドイツ式にきちんとやらないといけない」
 と真面目な表情でつぶやかれた。ドイツ式、というのが赤岩氏の口癖で、メモをきちんと取るたびに、ドイツ式に、といわれた(入社早々の綿貫君は、はじめてそれをきいたとき、「ドイツ式に、というのにはまいったなあ。ぼく、気に入っちゃいましたよ」と、あとで嬉しそうに笑った)。
 そうやってつくったワイシャツだったが、問題が起きた。きちんと計って仕立てたので、袖丈はちゃんと合っている。それなのに、近所のテーラー、ぴか一洋服店(仮名)でこしらえた上着の仮縫いにいって合わせてみると、なんだかワイシャツの袖が変だった。上着の袖口から出てこない。上着の袖は、ちょうどいい長さである。それならワイシャツが短いのじゃないか、といって有金君のところにやって来た。ワイシャツ姿になってもらい、鏡の前で計り直してみたが、やはりワイシャツの袖はちょうどよい長さである。赤岩氏は、なんどかテーラーとのあいだを往復して、とうとう癇癪を破裂させた。
「どうなっているんだ! あっちへ行けば上着がちょうどよくて、こっちに来ればシャツがちょうどいいなんて。あたしの身体は、幽霊か!」
(つづく)