課長になった頃 その3

 新谷さんは真っ青になった、と、その場にいた事務所の愛原さんが、すぐに教えてくれた。新谷さんの手は、ふるえて、とまらなかったのよ。
 その日から、新谷さんはぼくと同じ電車に乗らなくなった。ぼくに対しては、仕事で必要なときしか話さなくなった。店長に叱責されたくらいは、彼女には大したことではなかったようだが、ぼくのいったという言葉にショックを受けたらしかった。
「なんだか散々ね、課長」
 しばらくたって、昼休みにロバの耳でいっしょになった愛ちゃんがいった。
「ほんとうに課長、そんなこと店長にいったの?」
 愛ちゃんが、タバコを吸いながらきいた。
「ぼくがいったのは、育ちのいいお嬢さんは、根っから明るくて悪気がないから、ちょっとくらいはしゃいでいても、注意する気になれない、ということさ。ほんとにそうおもってるからね。なんでそれが、注意してもきかない、というふうに変わっちゃうのか、理解に苦しむけど」
 タバコの煙りがしみて、愛ちゃんの片方の眼がうるんだ。
「そう新谷さんに説明したの?」
 ぼくは、まずい上に冷めたコーヒーを飲みほした。
「しない。彼女がぼくを避けてるようだから」
「気の毒ね、課長。わたしがそう話してみようか?」
 口紅のついた吸い口で指を汚さないよう、気をつけながら灰皿でタバコの火を消した。
「いいよ。きっと、いいわけしているとおもわれるから」
「あの禿げ、ほんとにロクなこといわないわね」
 新谷さんは、そんなことがあっても、すぐに辞めたりしなかった。ぼくとは口をきかなかったが、結構楽しそうに仕事をしていた。たまに眼が合うこともあったが、いやなそらし方はされなかった。
 退職することになった最後の日に、ぼくの前に立つと、「どうもいろいろお世話になりました。有難うございました」ときちんと挨拶した。顔は笑っていたが、ペコちゃんのような大きな眼は、しっかりのぞきこもうとしても、キラキラしているばかりでとりとめがなかった。
 後日、山口瞳先生御夫妻が、姪がお世話になりました、といって御礼にみえた。御礼のお菓子が社員に配られたが、ぼくはとても口にする気になれなかった。
 おかしなことに、新谷さんがJRで帰らなくなると、荻馬場さんも前通り、神田まで地下鉄で帰るようになった。どうやら荻馬場さんが、ぼくが新谷さんを誘惑するか、もしくはその反対が起こるのを心配するあまり、わざわざ遠回りのJRに乗り込んできていたことがわかった。