立原正秋先生

 立原正秋先生は、スポーツシャツに丸いつばのあるピケの帽子をかぶってみえた。
 箱をあけると、仕立券付きのワイシャツ生地がはいっていた。
 ちょうど4階のホールで展示会をやっていたときで、鎌崎店長は立原先生をエレベーターに乗せて4階におつれした。
 会場には、衣料品と貴金属がケースやハンガーラックに飾られており、店長はゆっくりと案内してまわった。ときどき、こんなのはいかがですか、というように、ハンガーにかかったままの上着やブルゾンをひらひらさせてごらんに入れた。先生は、無言のままだった。
 貴金属のケースから、金のカフスボタンを取り出して見せた。先生は無言だった。
 ネクタイを見せた。先生は無言だった。
「なにか、お願いするものはありませんか?」
 ひととおり見せおわると、こびるような笑い顔をつくって、揉み手しながら店長がいった(註、お買い上げいただくことを、お願いするという言い方をした)。
「ワイシャツを作ってもらいにきたんだから、そっちのほうだけお願いしたいね」
 と、立原正秋先生はおっしゃって、もう一度、箱をつき出された。
 店長の禿げ頭から恐縮した湯気があがった。
〈付記〉
 立原先生は、黒ぶちの四角い眼鏡をかけておられ、ほそい眼がするどかったが、怖いという印象はなかった。それから何度もお会いすることになったが、その印象はかわらない。
 この最初のとき、白いシャツに黒のスラックスで、黒い鼻緒の下駄をはいておられたような気もしているが、そうするとかぶっておられたのは麦わら帽子にもおもえてきて、自分の記憶があいまいなのを感じる。
 1階から4階の会場にあがって、ひととおり会場をまわっているあいだ、ぼくが先生のワイシャツ生地のはいった箱をもって歩いた。店長が先生になにか見せるたび、先生はぼくの顔を見た。ぼくには、先生がなにをおっしゃらんとしているのか、よくわかっていた。
「なんでおれが見てまわらくちゃいけないんだ。ワイシャツ作りに寄ったのだから、はやくすましてくれよ」(とはいうものの、貰い物をもってきたのだから、すこしはつき合わないとまずいかな)。
 そして、こういうふうにわかってしまうことは、商売には実に不向きな性格だということを、それから20年かけてゆっくりと思い知らされることになるのである。