足もとを見る、という言葉があるけれど、はいている靴を見られることがある。外国のホテルなんかではけっこう顕著だそうで、この場合、靴がふところ具合のバロメーターになっているのである。イタリーでは、きちんとした服装をしていかないと、レストランでも良い席にはつけず、隅のほうや柱のかげに坐らされるということである。いやですねー、とおもうが、仕事をしているときの自分がそうでなかった保証はない。
 ある日、山口瞳先生がひとりの青年と来店された。青年は、一見して、編集者のように見えた。山口先生には、よく編集者の方がついてこられた。
 山口先生がつれてこられた男性は、じゃがいものような風貌だった。もとボクサーの渡嘉敷さんにちょっと似ていた(渡嘉敷さんがじゃがいもというわけではないけれど)。
 山口先生は、セカセカとはいってこられると、すぐにネクタイのコーナーに進まれて、どれがいいかな、というふうにちらっとぼくを見た。先生のうしろに、のっそりといった感じで、その男性がしたがった。
「これなんか、いいんじゃないかな?」
 山口先生が1本のネクタイを指さした。イタリー製のボルサリーノだった。
 ボルサリーノは、もともと帽子のメーカーで知られていたが、そのころだってすでに帽子は衰退して、往時のようにだれもがかぶるわけではなかったから、ずいぶんマイナーなイメージがあった。ぼくは、さりげなく、ランバンやミラショーン、それにエルメスとかゼニヤのネクタイを並べて見せた。どうせ1本プレゼントされるなら、自分なら名の通ったメーカーのほうがいいとおもったからだ。しかし、山口先生は、ほかのネクタイは一瞥しただけで、やっぱりこれがよさそうだよ、とつぶやかれた。そして、青年の胸元にそのネクタイをあてると、鏡にうつして見るようにうながした。
 山口先生にとっては、ブランドやメーカーの名前は二の次で、ネクタイそのものがよければそれでよかったのだろう。だいいち、この店には、くらべて劣るような品物があるわけがない、とおもっておられたようで、それはたぶん山口先生の信念であり、だから安心して買い物にこられるし、ひとにもすすめられるんじゃないか、という心意気のようにも見えた。ぼくはとっさにそれを感じると、おせっかいを恥じてすこし赤くなったかもしれない。うつむくと、青年の靴が眼にはいった。ドタ靴のような茶色い革靴で、すこし擦れて汚れていた。
「これがいいです」
 と、青年がもっさりとした口調でいった。
 自分のおせっかいを棚に上げて、山口先生といっしょに歩く編集者なら、もっときれいな靴をはいたらいいじゃないか、とおもった。

〈付記〉 
 1996年4月発行の「サントリークォータリー」は「山口瞳追悼特集」号で、そのなかに「『行きつけの店』に行く」と題するエッセイがあって、山口先生とおつき合いのあった作家が先生のお馴染みだった店を再訪しての感想が書いてある。失礼して、回想の部分を引用させていただくことにする。
「銀座へ行くと、フジヤ・マツムラという洋品店でネクタイを買っていただいた。いまこの原稿を書くためにそれを洋服ダンスからとり出してみたら、イタリー製のボルサリーノだった。ぼくはそのとき単純にうれしがってもらっただけだが、山口さんが親しい人に物を贈るときはそのフジヤ・マツムラで何かを買うことにしていたというのはあとになって知った。」
 キャッといってロクロ首になる、とおっしゃったのは吉行淳之介先生だった。このエッセイの作者の名前を見て、ぼくの首もキャッとのびたかどうかは、自分ではわからない。作家、海老沢泰久氏だった。