清水のおばあちゃん その1

 砂糖部長が箒で店の前を掃いていると、小さなおばあちゃんが道をたずねた。
 砂糖部長はまだいちばん下っ端で、ずいぶん若かったころのことである。
 口で道順を教えたが、おばあちゃんは地方から来たので、銀座の地理がわからないといった。それで、仕方なく、掃除をほっぽり出して、いっしょに目的の場所まで歩いて案内した。いそいでもどったが、先輩たちに、「あんなみすぼらしい婆さんに親切にしてどうする。それより、自分の仕事のほうをきちんとやれ」といって叱られた。
 おばあちゃんは、帰りにまたやってきて、親切にしてもらったからといって、ネクタイを1本買ってくれた。当時は舶来のネクタイは高価だったから、そのおばあちゃんには身分不相応におもえた。しかし、先輩たちの手前、顔が立って、ありがたくないこともなかった。
 それから間もなく、外商で静岡に行ったとき、たまたま、名簿をもらってあったあのおばあちゃんの住所の近くを通りかかった。その家はすぐみつかったが、おばあちゃん同様、古くて小さな平屋の家だった。砂糖部長は、すこし迷ったけれど、ここまで来たのもなにかの縁だとおもい、ご挨拶だけしてゆくことにした。おばあちゃんは、びっくりした顔をしたが、あがれあがれ、といって砂糖部長の手を引っ張った。
 家にあがると、座敷に白衣を着た小さなおじいちゃんがいて、湯呑みでお茶を飲んでいた。昼休みで、食事にもどったところだといった。午後2時をすぎていたから、昼のお弁当屋さんだろうと見当をつけた。お子さんがなくて、二人暮らしだった。
 おばあちゃんが、「こないだ話した、東京のとっても親切な人がこの人」と、おじいちゃんに紹介した。おじいちゃんは、ニコッとして、「それじゃあ、お礼に、なにか買ってあげよう」といった。
 それから砂糖部長は、年2回、かならず「清水のおばあちゃん」のところに外商に寄るようになった。
 ぼくが砂糖部長に連れていかれたときには、おじいちゃんもおばあちゃんも、本当におじいちゃんとおばあちゃんになっていた。家も、噂以上にボロボロだった。
 おばあちゃんが、お茶を出しながら、
「もう20年になるかしら、砂糖さんと知り合って。あれから、ずいぶんおつき合いさせられちゃったわねえ、合計したらマンションが買えるくらい」
 と、笑ってぼくにいった。「そのかわり、こんな田舎にいて、ずうっと銀座のおしゃれができたんだもの、楽しかったわ」。
 おじいちゃんも、静かに笑ってうなずいた。砂糖部長は恐縮して、耳のうしろをかいた。
 おじいちゃんは、近くに医院をもつ歯医者さんだった。儲かっているとおもわれるのがいやで、家を直さないでいるのだった。