カン違い

 O氏のお仕事は貿易関係で、巨万の富を蓄えておられるという話だった。レマン湖のほとりに別荘があり、担当の鎌崎店長に夏休みに泊まりにこいといってくれた。箱根あたりじゃあるまいし、はいそうですかといって簡単に泊まりに行けるわけがない、と鎌崎店長は苦笑した。
 原宿のコープオリンピアのなかにいくつか部屋を持っており、O氏と夫人はべつべつの部屋に住んでいた。 どなたのお家でも、ご主人と奥様では別のお部屋でおやすみになることがあるでしょ、という説明をされたが、なんとなくそれとは違う気がする。
 O氏はもう相当な年配で、頭の頂上はすっかり薄くなっていたが、髪型は少女のおかっぱのようだった(藤田嗣治の髪を白くして、てっぺんだけ丸く禿げているところを想像してください)。しかし、丸い黒ぶちメガネの奥の眼は小さかったものの、背は高く、かくしゃくとして、静かで威厳があった。いつも、胸のポケットに補聴器を入れて、イヤホンを耳につけていたが、それは勲章のようにも見えないことはなかった。
 スイスにチメリ(ヅィマリと本当は読むのかな。スペルは、Zimmerli)という下着メーカーがある。最高の綿を独自の工法で織り上げて、下着のロールスロイスといわれている。昭和40年代にそれをフジヤ・マツムラに紹介してくれたのがO氏で、海外によく出かけることがあったのと、良い眼を持っておられたのだろう。チメリは、マツムラの親しい問屋を通じて、はじめて日本に輸入されることになった。Tシャツやブリーフが、大卒初任給の10分の1くらいの値段だった(退職する先輩の福居さんに、みんなで餞別にチメリの下着を1枚プレゼントしたが、福居さんは、なんでネクタイじゃなくて下着なんだ、と最初腹を立てた。それから、今後とても自分じゃ買えそうにないものを贈ってもらったことに気がつくと、あらためて感激しなおしたのだった)。
 O氏は、いつも小柄でよくしゃべる夫人といっしょにみえた。たいてい、鎌崎店長とおしゃべりするのは夫人で、その間、手持ち無沙汰のO氏は補聴器を手で調節したりして、ボーッとしており、ときどき見上げて相槌を強要する夫人に、うんうん、とあわてて相槌を打つのだった。
 O氏がなくなると、原宿のマンションはそのままに、南青山にしゃれたお城のような家を建てて、夫人とお嬢様親子(せっちゃんとピーター)がいっしょに暮らしはじめた。マンションをそのままにしておくのは、荷造りが面倒だから、という理由らしかった。財産のほうも、面倒なくらい遺したようだった。
「元気でどこもわるくなかったのに、こんなに早くいなくなるとはおもわなかったわ」
 夫人がいわれた。
「そうですよね。すこしお耳が遠いだけでしたものね」
 店長が応じた。
「え? 耳なんか遠くなかったわよ」
「は? でも、補聴器してらしたじゃないですか」
 夫人は、あら、いやだ、とつぶやくと、笑いながら、いった。
「あの人は、耳なんかわるくなかった。あれは補聴器ではなくてよ。いつも、トランジスタラジオ聴いてたの」