はじめてのおつかい

 入社してすぐの頃、はじめてのおつかいが集金だった。
 鎌崎店長が、ちょっと集金してきてもらおうか、といってぼくをよんだ。それで、住所を名簿からひろって、地図をひろげてみた。地下鉄広尾駅が近そうで、日比谷線なら通勤定期が使えるから、ぼくが行くのがもってこいのようにおもえた。行けばわかるから、といわれて、領収書を渡されて、黒板に行き先を書いて出発した。
 このお宅にうかがうのは、はじめてではなかった。それまでにも何回か、挨拶回りにうかがっていた。いつも個人タクシーに乗せて行ってもらっていたから、道はあいまいだが、マンションの前までくればすぐわかる。このマンションには浅丘ルリ子石坂浩二夫妻が住んでいる、という噂だった。
 部屋の呼び鈴をおすと、ドアがあいて、はじめてお会いするご主人のT氏がのっそりと現れた。指揮者のT氏は、中背でむっくりした身体つきで、ほとんど表情がなく、口も重かった。ぼくは、集金にうかがった旨を伝えた。
「いま、家内が留守で、請求書がわからないけど、金額はいくらです?」
 ぼくは、会社から預かってきた領収書をご覧に入れて、これだけいただくようにいわれてまいりました、といった。だいたい、いまの大卒初任給くらいの金額だった。
「待ってください。ふだん、支払いなんかしたことがなくってね。これだけのお金があるかどうか、見てきます」
「あの、もしなんでしたら、出直してまいりますが」
「いや。ちょっと待っててください」
 T氏は奥に消えたが、しばらくするとお金をかき集めてもどってきた。
「あったあった。お互いよかったね、お金が間に合って」
 T氏はホッとしたのか、はじめて笑い顔になった。ぼくも恐縮して、精一杯笑顔をつくって、お礼をのべて帰ってきた。
 ぼくが店にもどるとすぐ、T氏の夫人から電話があって、鎌崎店長が電話に出た。そして、すぐに平身低頭、ひたすら謝り出した(といっても口先だけで、顔は笑っている)。
「そうですか、奥さまのお留守に、はあ、まるで泥棒猫のように、へえ、なにもご存じないご主人様から、ふんだくるようにして集金しただなんて、もう、なんて申したらいいやら、ほんとうに申しわけございません。はい、それはもう、すぐにお返しにうかがわせますから、お腹立ちでしょうが、私に免じて、どうぞ許してあげてください。まったく泥棒猫なんですから」
 なんだか、話の成り行きがおかしかった。電話を切ると、店長は笑いを噛みしめてぼくを見た。
「いつまでも入金がないからきみに行ってもらったんだが、きょう、出かけたついでに奥様が銀行に振り込んできたんだってさ。すぐに行って、よく謝って、お金返してきたほうがいいな。電話もなしにわたしの留守に来て、泥棒猫のように主人からお金を取って行ったわねって、なんだかきみが悪者になっている。あの奥様、怒るとこわいからな」
「はあ?」
 ぼくは、もう一度T氏のお宅のベルを押した。すぐにドアがあくと、目の前に夫人が立っていた。