夏のつぶやき

 指揮者のT氏は、間もなくなくなった。ぼくを泥棒猫扱いした夫人は、若くして未亡人になった。
 しかし、これは、ぼくの関知しないところの事柄である。そりゃあ、たまたま間が悪くて、ひどい扱いをされたことは事実だが、ぼくはキャリー(註、スティーヴン・キングモダン・ホラー小説「キャリー」の主人公)なんかではないから、故意にだれかをどうこうできる道理がない。ただ、反論できる立場にないことは承知していても、理不尽な扱いを思い出すととてつもなく腹が立って、翌朝、怒り心頭に発するや、目の前の食卓に載っていたゆで卵が音を立てて破裂して、自分でびっくりした。
 釜本次長に連れられて、はじめて福山まで外商に行った。入社して、3年目くらいのときのことだ。次長は、毎年、春と秋にうかがっており、すっかり馴染みになっていた。全部で10名たらずの顧客だが、どの方も買う気満々で、毎回十分すぎるほどの売り上げがあがっていた。
 福山に着いた晩、食事がおわると、これからNさんの家にご挨拶に行こう、と次長がいった。N様はこの土地のボス的存在だから、根回ししておくのだという。ホテルから歩いてすぐのところにN様のお宅はあった。ボスの家にしては小さかった。もと福山市長の令嬢で、ずいぶん以前に開業医のご主人をなくされて以来、女手ひとつでご子息を育てられ、東京の大学の医学部にあげられて、卒業後は医院を開業させる予定だといわれた。着物の柄をデザインして、それを縫い上げては、きまった顧客に納めるのが仕事のようだった(Nさんのご威光にはかなわないから、黙っていうとおりに着せてもらっていれば害がない、というのが陰での評判だった)。
 N様は、昔はさぞかし美人だったろう、とおもわせるはっきりした顔立ちで、きりっとした目元がすずしく、白い歯並びのこぼれる赤い唇から、冗談とも皮肉ともつかない言葉を怜悧に連発された。
「あなた。早う、おうちに、帰りんさい」(イントネーションは広島弁
 畳に手をついてお辞儀をしたぼくが、顔をあげるやいなや、最初にN様はそういった。ぼくは意味がわからなくて、次長の顔を見た。なにかぼくのことが気に入らなくて、帰れといっているのかとおもった。
「あなたは、父親の死に目に会えん相ば、しちょりなさるよ。顔にそう出ておりよる。いっそ、こげんところにおらんと、いまから東京に帰られて、お父さんのそばにいてやりんさい」
 ホテルに戻る道々、ぼくは次長に、あれはどういうことだったのか、たずねた。まるで狐につままれたようだった。
「あの方はね、そっちのほうの霊感がすぐれていてね、よく当たるらしいんだ。きっと、きみを見て、なにかを感じたんだろうが、案外本当かもしれないよ」
 仕事の途中で帰れるわけがないので、ぼくはなんだか嫌な気がした。初対面で、もし本当だとしても、口に出していうべきことだろうか。やはりぼくは、N様に嫌われたのか。
 翌朝、ホテルの朝食のゆで卵は、べつに割れなかった。しかし、あの無神経な言葉にたいし、ひと晩たっても、相当頭にきていたことはたしかだった。ところが、それから滞在中になんどもお会いしたN様は、ご自分のいわれたことをもうすっかり忘れておいでのようで、ぼくを見てもふつうにニコニコしていた。むしろ、気に入られたように見えた。
 1週間後に外商から帰ってみると、父親は無事で、晩酌をやりながら上機嫌で、おかえり、といった(それから数年後に医者の誤診でなくなったが、夕方危篤になって呼ばれてから、翌朝なくなるまでぼくは父のそばについていた)。
 N様のご子息は、その後インターンをおえられ、ちかぢか帰省されるという矢先に、オートバイの事故で他界された。交叉点の電柱に衝突して、即死だった。せっかく家を大きく建て替えて、医院を併設するばかりになっていたのに、計画は無駄になった。もちろん、これもぼくの関知する事柄ではない。ではあるが、その後にいくつか起こったことから顧みると、どうやらぼくを激しく憤慨させた本人よりも、その人がいちばん大切におもっている人に災いがふりかかっているような気がしないでもないのだけれど、まあ、偶然でしょうね。
(付記―夏なので、やや「私のニセ東京日記」ふうの「ギンザプラスワン」になりました)