花器沼先生
ドアをあけて、花器沼先生(仮名)が入ってきた。
「暑いなあ。おれんとこの事務所からここに来るのは、容易じゃないよー」(しりあがりの茨城弁)
花器沼先生は税理士さんで、7丁目の資生堂の裏に事務所があった。古いビルで、間口もせまく、エレベーターはなかった。ビルのせまい階段をあがってゆくと、なんとなくトイレのにおいがした。
花器沼先生は、家から車で出社すると、一日中松坂屋の駐車場に入れておいた。だから、家に帰るなら、まっすぐ松坂屋に行ったほうが近い。それなのに、夕方、かならず店に寄って(ほとんど毎日)、くだらないおしゃべりをしてから帰って行った。ストレスを発散していたのかもしれない。
花器沼先生は、黒い革の鞄を来客用の椅子に置くと、裏口からトイレに行った。
しばらくすると、表のドアをあけて、また花器沼先生が入ってきた。
「暑いなあ。おれんとこの事務所からここに来るのは、容易じゃないよー」(くどいけど、しりあがりの茨城弁)
そういうと、裏口から出て行った。
「なんか変だな」
鎌崎店長がいった。「さっきもあの先生、表から入ってきて裏口から出て行ったよね」
「そうだね」
釜本次長がうなずいた。「わざわざ外でひとまわりして、入りなおしたのかなあ」
見ると、椅子の上に、黒い鞄はひとつしかない。あとから入ってきた花器沼先生も鞄を持っていたような気がしたが。
やがて、ハンカチで手をふきながら、花器沼先生はもどってきた。
「あの、先生。さっき、また表から入ってきました?」
店長が怪訝な表情でたずねた。
「なにいってんだよー。なんでおれが、そんな面倒なこと、しなくちゃなんないんだよー」(うるさいかもしれないけれど、しりあがりの茨城弁)
「そうですよねえ。ああ、おどろいた。なにか、ちょっと、勘違いしたもんで」
「暑いから、頭がぼーっとしちゃったんじゃないの。あんた、ひとより直接、感じやすい頭してるから。おれなんか、こんなに髪の毛おおいから、洗うとき大変だよー。分けてあげたいね」(しりあがりの茨城弁!)
「よけいなお世話ですよ、どんな頭してたって」
「はっはー。ここにいても一銭にもならないから、きょうは早くかえっかな。じゃ、諸君、おかせぎください」(茨城弁、しりあがりの)
花器沼先生は、鞄をさげて表のドアから出て行った。
「やっぱり、なにかおかしい」
みんなを見まわして、店長がいった。ひとしきり、みんなでがやがやした。だれかが、おばけ、と小さい声でささやいた。
しばらくすると、裏口があいて、花器沼先生が入ってきた。
「またですか?」
店長が、おもわず声をだした。
「またって、なんだよー。失礼だねー、この店は。客が小便してもどってきちゃ、いけないっていうのかよー」
花器沼先生は、不機嫌そうに、しりあがりの茨城弁でいった。
「わけがわからない」
鎌崎店長がつぶやいた。
「まったく、なにいってんのー。冗談じゃーないよー。そんじゃあ、かえろーかな。店長、あんた最近、評判わるいよー」
花器沼先生は、しりあがりの茨城弁で悪態をついて、表のドアから出て行った。ちゃんと黒い鞄をさげていた。
(註、「ストレスを発散していたのかもしれない」までが「ギンザプラスワン」で、それからあとは「私のニセ東京日記」です。花器沼先生の発言は、すべて実際にいわれたことから拾いました)