あの頃の車事情

 昭和52年にはじめて見たときの花器沼先生の車は、グレーのトヨタのクラウンだった。
 先生は、車はじっくりと乗るタイプのようで、20年のあいだに3台しか乗り換えなかった。
 2番目は、濃紺のBMW。3番目は鶯色のベンツである。
 オイルショックからバブルがはじけるまでをひとつのサイクルと考えたら、日本のあるクラスの傾向がよく現れている車の選択のようにおもえますが、いかがでしょう。
〈余談〉
 ちなみに、団塊の世代の車事情をちょっと。
 友人の鰐口(自営業からサラリーマン)は、学生時代にいすずベレットを最初に購入した(「へへ、女の子に一番人気のある車なんだ」と彼はいったが、この車は女の子が自分で運転する車として人気があったのだった)。高校のころから中古のオートバイを買ってきて、自分で調整したりして乗っていたくらい乗り物が好きだったから、自動車の運転免許が取れる年になるとすぐに教習所に行った。もっとも、家が土建屋でトラックなんかもあったから、とっくに空き地を無免許で乗り回したりしていたのだけれど。ぼくが運転免許を必要としなかったのは、この友人がいつでも必要なときに乗っけてくれたからだ。家の仕事を手伝いだしてからは日産スカイラインに乗換えて、役所に親を乗せて工事の請け負いに行ったりしていたが、これはけっこう長く乗っていた。人気の車種だったので、手放すときにもぜんぜん値減りしていなかった。乗換えたのはオイルショックのころで、中古のフォルクスワーゲン・ゴルフを購入した。その後40ちかくなって、おそい結婚と同時にクラウン(「いつかはクラウンていうからな」)に換えたので、ぼくとカミさんが、クラウンは似合わない、といってクソミソにけなすと、チクショーと叫んですぐにベンツを購入した(奥さんは持参金をもって嫁にきたのだそうだ、5億円ばかり)。
 友人の甘木(サラリーマンから自営業)は、会社員のとき、30ちかくなって運転免許を取った。そしてすぐ、中古のゴルフを購入。その後結婚するとゴルフに飽きて(というのは建前で、甘木のゴルフはガソリンエンジンだったから、ぼくが購入したヂーゼルよりもうんと燃費がわるくて、ずっと頭にきていたのだ)、フィアットアウトビアンキから、シビック、アコード、プレリュードとホンダを乗り継いでBMWに。そして、BMWを何台か換えてから、ワーゲンのニュービートルにいまは落ちついている、らしい。20年で10台ちかく乗り継ぐのはたいへんなことである(この床屋の息子は、奥さんの持参金などはなく、財政的にも浮沈を繰り返しての20年だから、あっぱれ、といっていいのかもしれない)。
 ぼくはといえば、甘木におくれること4年、いい年でようやく運転免許を取得して(鰐口に彼女ができて、乗せてくれなくなったことも一因)、結婚と同時に当時鰐口も甘木も乗っていたワーゲン・ゴルフを中古で購入した(註、2006-02-19「有金君 その7」参照)。 しかし、サラリーマンで薄給のうえに、団地住まいで駐車場を借りていたから、カミさんの上の姉に、自分の家を建てて駐車場をもつまでは車に乗るなんて生意気だ、と叱られたので、ぼくは2年乗ったところで緑色のゴルフを処分した。
 それから10年我慢して、買った車はオペルヴィータだった。それを2年目によその家にぶつけて壊し、ルノーのルーテシアというのに乗換えて、あっちこっち故障をするたびに、溜息をつきながら手当てして乗っています(町工場の子どもであるぼくは、サラリーマンから自営業組だけれど、同世代ではごく一般的な部類に属するとおもう。もちろん、カミさんに持参金なんかなかった。おまけで土地が付いてきたけれど)。
 鰐口のゴルフは黄色で、甘木のゴルフは青だった。ふたりは口を揃えて、おまえの車が赤だったらよかったのに、といった。ぼくのゴルフは、雨蛙のような緑色だった。
「おまえの車が赤ならば、3台揃うと信号みたいじゃないか」(これって、30すぎた男のいうことでしょうか)。