ある日の昼飯

その日は遅番だったので、銀座に来てから昼飯をどうしようかと考えた。遅番は、タイムカードを午後1時20分までに押せばよい。時計を見ると、まだ12時前だった。簡単に食事を済まして、ロバの耳でまずいコーヒーを飲んでゆくくらいの時間はある。そこで、数寄屋橋交叉点に近い塚本素山ビルのきしめん亭に行くことにした。もう初夏のころで、さっぱりときしめんのざるで昼食をとるのが一番よい選択のようにおもえた。
 きしめん亭は、地下1階のいちばん奥にあった。わりと穴場で、食事時間どきでも、それほど混雑しなかった。もっとも、サラリーマンが多いから、たいていは誰か知らない人と相席になる。べつに、ゆっくりするわけではないから、それでも構わない。
 席に着くまで、ぼくはざるを頼むつもりでいた。ところが、坐った拍子に、なんとしたことか違うメニューが口から飛び出した。
「カツ丼、ください」
 注文してから、いや、いまのは間違いで、ほんとはざるが食べたいんです、といえばよかったのだ。ほんとうにざるが食べたかったのだから。でも、ぼくは、値段の高いものから安いものに変更したら、店の人がいやな気がするだろう、と咄嗟におもって、口をつぐんだのだった。
 そのとき、おっ、タカシマさん、という声がした。あわてて顔をあげると、店の顧客の蜜野庄助氏(仮名)が、店員さんにざると大声で注文しながら、ぼくの前の空いた席に腰をおろすところだった。小太りの太鼓腹が、テーブルに当たって窮屈そうに見えた。
「奇遇だなあ、こんなところでタカシマさんと会うなんて。あなた、ここへはよくみえるの?」
 鉄工場経営者の蜜野氏は、地声の大きな声でいった。
「ええ、まあ、ときたまですが」
 ぼくは、しどろもどろになっていたかもしれない。顧客と食事の席を同席するのは気がすすまない。
「ぼくもたまに来てみるんだ。きしめんがなつかしくなると」
 蜜野氏は名古屋の出身だときいたことがあったから、きっとほんとうなのだろう。
「夏はやっぱりざるでしょう。ここへ来て、ドンブリものなんか頼む人がいるけど、気が知れないね」
 蜜野氏は、そういうと、コップの水をいっきに飲んだ。そこに、ぼくのカツ丼が来た。 蜜野氏の眼がカツ丼にとまった。