ある日の昼飯2

ぼくはもう、ぜんぜん食欲がなくなっていた。せっかくのカツ丼が、とてつもなく重く見えた。カツの切れは、口に入れても、なかなかのどにおりてゆかなかった。
 すぐに蜜野氏のざるきしめんがきて、蜜野氏は音を立ててきしめんを吸い上げはじめた。太鼓腹がテーブルにつっかえて窮屈そうだったが、そんなことにはおかまいなく、ざるの上にかがみこんだまま、一息に食べてしまった。
「ああ、うまかった。それじゃあ」
 といって、立ち上がりしなに蜜野氏は、ぼくの前にあった勘定書をひったくるように取り上げた。
 ぼくは、口の中にカツの切れ端をくわえたまま、んん、と勘定書を取り返そうと手を伸ばした。顧客にご馳走になるいわれはない。ところが、あわてていたので、箸をにぎったままだったから、箸の先で蜜野氏のコロンとした短い指をはさんでしまった。
「す、すみません」
 蜜野氏は、ニヤッと笑うと、おしぼりで指をふいて、ぼくの指は食えないよ、といった。
「こんな機会はまずないんだから、いいからぼくにご馳走させてよ」
 ぼくは、まわりの眼を気にしながら(なに小競り合いしてるんだよ、こんなところで、といった雰囲気を感じたのだ)、ありがとうございます、と小さな声でいった。
 午後おそく、蜜野氏は店にやってきた。どこかで用事を済ませてきたらしい。ぼくは、すぐにさっきのお礼をいった。
「彼がご馳走になったそうで、すいませんでした」
 話をしてあった鎌崎店長が、そういって挨拶してくれた。「指まで食べるところだったって」
 ははは、と椅子に腰かけた蜜野氏は笑った。「だから、指は食えないっていったんだ」
「社長さんは、どう見ても、煮ても焼いても食えなさそうですもんね」
 店長が、細い眼をパチパチさせながら、そういった。
「そういう人も多いけど、そうでもないんだよ。ぼくなんか、孤独だからね。はしゃいでいるように見えても孤独なの。だから、あんまり知合いのいなそうな店に、ときどき、行きたくなるんだ。そうしたら、彼がいたの。タカシマさんも、きっと、孤独な人なんだなって、おもったよ。孤独のわかる人じゃなければ、知己にはなれないもんだ」
 蜜野氏は、しみじみとした口調でいうと、店長の顔を見た。店長は細い眼を、やたらにパチパチさせた。ぼくはというと、なんだか頓珍漢だな蜜野社長は、とおもった。ぼくは、自分のことを孤独な人だとはおもわなかった。災難に遭った気の毒な人だとおもっていた。