続・田舎の道

 蜜野庄助氏(仮名)が、海外旅行に行くけど、半ダース、いまからシャツを頼んでも間に合うかね、ときいた。 ぼくは、カレンダーを見て、なんとかしましょう、と安請け合いをした。そして、蜜野氏が帰ったあと、さっそく職人さんに確認をとり、期日までには仕立ててもらうように約束をした。
 この職人さんは、大井の加藤名人(註、2004-09-5「加藤さん」参照)の知合いで、目黒の近くにアトリエを構えていた。加藤さんが立て込んで、どうにも納期が間に合わないようなとき、この人に頼んだ。だから、メインの職人ではないのである(習った師匠がちがうと、出来上がるシャツもまったく異なるし、しかもこの職人さんは、自分で仕事をする部分がすくなかったのだ)。
 この職人、居所さん(仮名)は、商売がうまくて、下職さん(たいてい、それぞれが自分の家でミシンを踏んでいる)をたくさんかかえてデパートの仕事も受けていた。デパートのワイシャツ売り場から、採寸伝票と生地が届くと、生地の裁断だけして、それを下職にまわす。その型紙に合わせて裁断された生地を、シャツに縫い上げるのは下職の仕事である。
 さらに居所さんの賢いところは、いちはやくアパレルメーカーに目をつけたことだった。ようやく日本にもデザイナーズブランドが登場しだしたころで、うまくそこにコネをつけ、女性ものの既製のシャツを一手に引き受けたのだ。メーカーは違っても、裾裏についたタグを見れば、どれもこれも居所さんのところで作られたものだと一目でわかった。
 アパレルメーカーの注文は量が多かったから、都内に点在する下職だけではまかなえなかった。有金君が居所さんにきいた話では、農閑期の農家の主婦に目をつけて、内職をさせるということだった。トラックに材料を載せて東北地方まで持ってゆき、配って歩く。そして、出来上がると、いっせいに回収して、またトラックで東京に持って帰るというものだった。へー、というしかない。都内にももちろんヒマな主婦はいるけれど、安い賃金で、集中的に人数を確保するのはむずかしいだろうから、なんて頭がいいんだ、と関心させられた(低賃金の労働力は、その後、韓国、中国、東南アジアへと河岸をかえますが、考え方としては早かったんですね)。
 で、その居所さんだが、すっかり約束を忘れていた。納期の数日前に、銀座に来たついで、といって蜜野氏が顔を出され、シャツはだいじょうぶだよね、と念を押された。そろそろ、居所さんから出来上がりの連絡があってもいいころで、すぐにぼくは確認の電話をした。
「ああ、そんな仕事が来てたかもしれないね」
 居所さんは、あっけらかんとして、いった。
「だって、先に電話でお願いしてあるじゃありませんか。期日どおりに納めるとおっしゃったでしょ」
「いったかもしれないが、手をつけてないものは仕方がない」
「冗談じゃありませんよ。お客様は、それを着て海外に行かれるんですよ。どうするんですか」
「どうするたって、いまからかかっても、全部は間に合うかなあ」
 ムカッとしたが、いちど電話を切ります、といって受話器を置いて、すぐに蜜野氏に訳を話した。
「お宅の職人がなんていってるか知らないが、ぼくはあなた、タカシマさんと約束したんだよ。全部出来なけりゃ、旅行はキャンセルだ。そんなケチのついた旅行なんか行きたくないね」
 とにかく、おそくとも出発前日の夜までに、6枚揃えてうちまで届けてくれなきゃ駄目だよ、といって蜜野氏はそそくさと帰られた。めずらしくご立腹だった。
 さあ、大変なことになった。ぼくは、大急ぎで西五反田の居所さんのアトリエに飛んで行った。そこでどんな大げんかをしたかはここでは省くけれど、蜜野氏の出発の前日の午後までに、かならず6枚作ってもらえることになった。といっても、もう正味2日しかない。ほんとうにドキドキものだった。ぼくは、ほとんど一睡もできなかった。
 ところで、肝心なことをぼくは忘れていた。居所さんのところには、たくさんの下職がいたのだった。普通、なにからなにまでひとりでやっている職人では、とても2日で6枚なんて無理な話だ。しかし、下職を何人か手配すれば、そんなにむずかしいことではない。居所さんが横着な返事をしたのは、それでも間に合う自信があったからで、たぶん鷹揚に大きく構えてみせたのだろう。
 蜜野氏との約束の日、シャツは昼過ぎに出来てきた。それで、お詫びの粗品空也で買って(こんなのは会社から出ないから自己負担)、午後おそく船橋にお届けにやってきたのだった。
(教訓。遠くて近いは男女の仲。近くて遠いは遠近両用メガネ。いや、もとい、近くて遠いは田舎の道)。