自動者外商

 最悪の自動車外商は、翌年の暮にやってきた。
 例年12月は、お歳暮を兼ねた展示会だけのはずなのに、ぼくにもひとりで自動車外商に行くようにというお達しが出て、びっくりした(すでに砂糖部長と1回、釜本次長とは2回、外商に出ていたし、9月には大阪に2週間、10月には京都に10日間、展示会のために出張していた)。
 なにしろ9月に部長が、10月に次長が、そして11月には次長のほかに有金君までが外商にあるいているので、めぼしい顧客はしらみつぶしにまわってしまったあとである。何度名簿を眺めても、行けるアテなどまったく見当たらなかった。おまけに、9月に砂糖部長と行ったとき、部長の成績が奮わなかったので、つい魔がさして、ぼくの顧客のお宅に寄って穴埋めまでしていたのだ。逆さにしても鼻血も出ないとはこのことだった。
 アルバイトの運転手は、来年卒業で富士通に就職がきまっているのだといった(「彼女はNECにきまって、おもいっきりライバルになっちゃいました」)。彼の父上は、サッポロビールに勤めており、ギネスを日本に最初に輸入した人だということだった(註、1964年に輸入開始)。はじめ、日本のビール通にはギネスの評判は芳しくなく、彼の父上はまずい立場に立たされた。数年たって、ようやくギネスは見直されたものの、だからといって彼の父上の功績とはならなかった(「時代より一歩すすんでいることが、かならずしも成功につながるとはかぎらない、と父は苦笑いしてました」)。
 気持のよい上智大の学生で、おかげで外商の1週間をへこまずにやり過ごすことができた。なんたって、どこにも行くところがなくて、ただただ京都の東西南北を、車でぐるぐる走りまわっていただけなのだから。
 まるっきり売り上げがないまま、東名高速を帰ってきた。中学のとき、陸上部に所属して、けっこう期待のランナーだったことがある。2年生になって、大きな大会の長距離の部にエントリーされたものの、足を故障していたときで辞退した。十分な練習ができなければ、十分な成果はあがらない。赴任してきたばかりの体育教師は、ぼくを外すことは考えられないといった(「評判どおりの走りをみせてくれよ」)。転出していった先生と大学が同期だったから、ぼくの噂も出ていたのかもしれない。1年生のとき他校の3年生と競り合ったレースは、ぼくの知らないところで評判になっていたようだ。当日がきても不調に変わりなかったが、代走は認められず、ぼくは出場した。三千メートルくらいでは、たいした差は出ない。ほとんどの選手がなだれこむようにして一団となってゴールした。ぼくはまだ、あと半周を残していた。ぼくのかかとは、もうやめてくれ、といっていた。最後のコーナーをまわってゴールにむかうぼくに、スタンドから割れるような拍手が送られた。歓声に悪気がなくとも、それはぼくの耳には、あざわらっているように聴こえた。永遠ともおもえる半周をまわりきって、ようやくゴールにたどりついたとき、そこにいる体操教師の姿が眼にはいった。彼は、ふん、といっておもいきり顔をそむけた(自分の名誉のためにいうと、翌年、ぼくは中学最高記録を出した。それは次の年に塗り替えられてしまうほどのささやかな記録ではあったけれど)。
 店にかえっても、きっとみんなが、ふん、というんだろうな、とおもったとき、カーラジオからパパス&ママスの「オールドファッションド・ラヴソング」が流れてきた。