H氏の話 3

 翌日、午後から出社してみると、なんとなく事務所の雰囲気がおかしかった。
 タイムカードを押してると、値札付けの豌豆さんが寄ってきて、そっと耳元でささやいた。
「釜本次長と荻馬場さんが喧嘩して、荻馬場さん、帰っちゃったの」
 それが、あとで語りぐさになったウンコ退職事件の発端だった。
 いつも次長は、事務所の鍵を開ける係だから、だれよりも早く出社する。そして、これはないしょだが、社長がけむたくて、なるべく顔を合わせないようにしていたので、2番目くらいに出社する社長が来る前に、タイムカードをおして店に行ってしまう。もちろん、このとき、事務所の鍵は閉めていくから、もし社長が来る前にだれか社員が来た場合、わざわざ店に鍵を取りにゆくか、社長が来るまで待っていなければならない(たいてい、それはぼくで、6階までエレベーターであがって、もし鍵が閉まっていると、またエレベーターで下まで降りて、店まで走ってゆき、次長から鍵をあずかって6階にもどり、事務所の鍵をあけるのである。そのころは、社長が来ていることもあるから、なんのために往復したのかわからないこともあった)。
 その日も、次長は早々と店のほうに行っていたのだった。そして、ぼくの注意書きを見てウンコを認めると、猛然と腹を立て、ティッシュかなにかでウンコを拾うと、まだ絨毯に残っていたのでさらに頭に来て、なにをおもったか、ホースを持ちこんで水道の水をまいて、デッキブラシで丸洗いしたのであった。絨毯は、水のあとが、しみになってひろがってしまった。
「おはようございまーす」
 といって、荻馬場さんが元気に店に着いたときには、もうすべてが終わったあとだった。
「なんで、次長、水なんかまいたの?」
 おもわず荻馬場さんは口に出した。次長の顔が赤黒くふくれあがって、眼がつり上がっていた。
「なんでって、ばかやろー。それこそ、なんでウンコ、そのままにしておくんだよー」
 次長の言葉は、乱暴だった。
「だって、一晩たてば、乾いて取りやすくなるとおもったし、だいいち、絨毯、ぽこっとはずせばいいんだから、床じゅう水まくことはないでしょう?」
 次長は、うっと詰まったようだった。頭に血がのぼって、絨毯を取り外せばいいことを忘れていた。水浸しになった床を眺めると、荻馬場さんの言葉が、自分こそ馬鹿じゃないの、といっている気がした。それで、もっと激怒して、あることないこと、関係ないことまで、ふだん鬱憤としてふかくひそめていたものを、ぜんぶ悪口雑言にして、荻馬場さんに投げつけた。
 親しき仲にも礼儀あり。同じ会社で働くものとしてのルールというか、けっしていってはいけないことというのがある。釜本次長は、その一線を越えて、憤懣にまかせていってしまったわけだ。
 しかも、次長は、日頃、荻馬場さんが、自分の頭越しに社長にいろいろ相談しているのを、おもしろからずおもっていた。
「社長に泣きついても、駄目だぞ!」
 と、大声をあげたところに社長が来た。
 社長は、ちょっと日本橋高島屋で会議があるから行ってくる、といいに寄っただけなのに、店のなかで喧嘩がはじまっていたからびっくりした。
「社長!」
 荻馬場さんが、そのときはもう涙がながれていたが、社長に話をきいてもらおうと、そばに走り寄って行った。それを、社長のほうは、たじたじとして、逃げ腰になった。
「また社長にいいつけようって魂胆か!」
 次長の怒声が、店じゅうに響いた。
「わたしはちょっと、いま、用事があるから、また帰ってからきくから」
 といって、社長は荻馬場さんの言葉をさえぎった。そして、そそくさと店を出て行った(逃げ出したように荻馬場さんには見えた)。
 残された荻馬場さんは、濡れた眼で次長をふり返った。眼のつり上がったダルマのような顔を見たら、もう話しても無駄なようにおもえた。それで、黙って店を出ると(地下鉄の入り口にいそぐ社長のうしろ姿が見えた。やはり、逃げてゆくように見えた)、事務所にあがって、ロッカーから荷物を出して、タイムカードを押した。事務所のだれかが、どうしたの、ときいたが、そのままエレベーターに乗って1階に降りた。そして、地下鉄まで歩いて、まっすぐ家に帰った。
 午後になって、ぼくが店に顔を出すと、もう次長は怒りがおさまったあとで、なんだかしぼんだ風船のように見えた。「昨夜はHさんがみえて、大変だったようだね」と疲れた顔で愛想笑いをした。
 その晩、ぼくは荻馬場さんに電話をした。社長にも帰りがけに、荻馬場くんに電話するんだろ、ときかれた。社長は、ぼくがうまいこといって慰めれば、荻馬場さんは翌日にも出社するものとおもっているふうだった。
「ウンコのことはもういいの」
 と、荻馬場さんはいった。昨夜のうちにぼくが処理していたら、こんなことにならなかったのに、ごめん、と謝ったときだ。
「そうじゃなくて、次長がずーとわたしにいいたかった文句を、ウンコにかこつけていったでしょ。むこうはいってすっきりしたかもしれないけど、わたしのほうは傷ついたのね。ウンコのことがなくても、きっといつか衝突したとおもうのよ。むこうが上役だから、わたしのほうが辞めるの。わたしが上役だったら、もちろんむこうを辞めさせるわ。それだけのことよ」
 それと、と荻馬場さんはいった。「あのとき、ぜったい、社長は逃げたんだから」。
 これが、伝説のウンコ退職事件の全容である。
(つづく)