綿貫君がゆく

 きのう(12月5日)、綿貫君の奥様から喪中欠礼の葉書が届きました。
 綿貫君は、今年の6月23日に永眠していました。行年53歳。
 食道がんでした。
 去年の秋ごろから、肩が痛いといいだしたそうです。医者に行ったら、と奥様がいうと、五十肩だからどうってことないよ、と笑っていたそうです。
 11月になって、友だちと話しているときに、首にぐりぐりができたんだ、といったら、友だちが見て、綿貫さん、それってやばいよ、医者に診てもらったほうがいいよ、といって病院を紹介してくれたそうです。有明のがん研にゆくと、相当すすんでいて、すぐに入院、放射線治療となったそうです。手術はできない状態だったといいます。2カ月入院していたようですが、その後は自宅療養になったようです。
 放射線治療のコースが終わったとき、すこし楽になったように見えたといいます。しかし、先生の診断は、食道がんがあちこちに転移して、余命半年というものでした。
 ときどき、がん研にタクシーで行くことがありましたが、道路の継ぎ目の、普通の人なら感じない程度の段差が肩にひびいて、痛がったそうです。がん研は、うまくモルヒネを用いてくれて、末期の患者によけいな苦痛を与えないようにこころがけてくれたそうです。
 23日に、もとレカンのシェフで、いま六本木のなんとかというレストランをやっているなんとかという外国人が見舞いにきて、なんとかが来てくれたからシャンパンをあけてあげて、と綿貫君がいって、なんとかがシャンパンを飲んでいるのを見ると、ぼくも飲もうかな、といったのだそうです。奥様は、病院からもらってきた、口が乾いたとき湿してあげる綿棒のようなものにシャンパンをひたして、くちびるに持ってゆくと、おいしそうにすすったそうです。
 なんとかが帰ったあと、疲れたのか眠ったように見えたので、奥様もとなりのマットレスに横になってうたた寝をしたのだそうです。気がつくと、綿貫君がベッドの上から奥様をじっと見ていたそうです。どうしたの、ときくと、実家に電話して、というので、電話すると、かわって電話に出て、奥様のご両親に、どうもたいへんお世話になりました、とお礼をのべたそうです。
 それから、ベッドから降りようとするので、手伝って降ろして立たせました。綿貫君は、プライドが高かったから、最後まで自分でトイレに行ったのだそうです。トイレかとおもって彼の身体を支えました。抱きしめて立たせると、そうしてそこにじっとしていました。倒れるといけないから、しっかり抱きしめていました。気がつくと、彼はもう死んでいました。
 なくなるまえにシャンパンを飲むなんて、とっても彼らしいとおもいました、と奥様はおっしゃっておられました。葬儀はしないつもりが、綿貫の母が親戚の手前があるからといって、本当の近親者だけ集めて行いました。ここには写真だけで、位牌も戒名もありません。するつもりもありません。彼はそういうのは嫌いだったから。
 ぼくは、彼が月島に越してから、一度も訪問しませんでした。遠くなったから、不便になって、遊びにこなくなっちゃったね、となんどもいってましたよ、と奥様にいわれて、電話を切ったあと、ぼくは涙が流れているのに気がつきました。
 だから、酒とタバコはほどほどにしろよ、といったんだ。ウイスキーはストレート、それもタンブラーになみなみ、それでタバコをスパスパ、葉巻をプカプカやってるんだから、病気にならないわけがない。ひとの忠告をきかないで、ニヤニヤしているから死んじゃうんだ、馬鹿。