痛い経験

 そのふたり連れは、陽気な調子でドアをあけて入ってきた。ふたりとも中東の人特有の顔立ちをしていた。日曜日で、出勤していたのは、鎌崎店長、釜本次長、それとぼくの3人だった。しかし、そのとき、釜本次長はなにか用事があって出かけていたので、店にはぼくと店長しかいなかった。
 ひとりのほうが、店のなかをゆっくりと見渡すと、靴下の置いてあるところに来て、店長に呼びかけた。店長は英会話が堪能だから、軽く彼に応じた(野坂昭如先生が、自分と同世代の人間で英会話が得意な人を見ると、なんとなく胡散臭い気がする、と書かれていたけれど、戦後の一時期、店長もそういう仕事についていたことがあったらしい。東京が混乱していた時代に、英語がしゃべれるというのは、ずいぶんなメリットだったとおもう)。
 冷やかしとおもって見ていたら、1足きまって、店長が2千円受け取った。その靴下は千8百円だから、2百円のおつりである。ぼくは店長から2千円預かると、レジをあけておつりを出した。
 そのとき、もうひとりの男が、ポケットから皺だらけの千円札をつかみ出して、10枚数えてぼくに差し出していった。
チェンジマネー、プリーズ。イチマンエン」
 レジには、朝のうちはおつり銭しか入っていないので、大きいお札は5千円までだった。5千円から1円玉まで、合わせてちょうど10万円入れてあった。ところが、あいにくぼくは英語は話せないから(英語は、じゃないな、フランス語ならできそうにきこえる。日本語しか話せないのは、英語も、というべきか)、「1万円札はないから、5千円札2枚ではどうか」なんてすぐに口をついて出てこなかった。
 そこでぼくは、店長に「5千円札2枚でもいいか、きいてください」と声をかけた。しかし、もうひとりが店長をつかまえてさかんにおしゃべりしており、店長はちらとぼくを見たけれど手がはなせないといった表情だった。
 しかたなく、ぼくは手真似で、片言をまじえて、「大キナオ金ハ、コレガ1バン大キイアルヨ。コレ2枚デ1万円ニナルケド、コレデモヨイカ?」ときいた。男は「モチロン」といったが、「オブコース」でなかったことに気がついたのは、あとになってからだった。
 それから男が、そばに寄ってきたので、ぼくは急に胸騒ぎがして、5千円札だけをしっかりと指先でつかんで力をこめた。まだ1枚もおつりで出ていないから、10枚あるはずだった。男は、お札をつまんだままのぼくの手をつかむと、もう一方の手でお札のどこかをゆびさした。そして、ぼくの手の向きを逆にして、またお札の裏側をゆびさした。なんのことだかわからない。そうして手をはなすと、笑顔で大きくうなづいた。
 ぼくは、相手から千円札を10枚受け取って、かわりに5千円札を2枚渡した。レジに手でもつっこまれるかと心配したが、そんなことはしなかった。
 ふたりは、かわるがわる店長と握手して、ぼくとも握手した。やわらかくて、なんとなく脂っこい感触の掌だった。そして、笑いながら「バーイ」といってふたりは出て行った。
 ぼくは、すぐに、レジのお金をかぞえはじめた。店長が、「どうかした?」ときいた。
「いや、なんだかいやな気がするものですから」
 そこに次長がもどってきて、「なにやってるの?」と、ぼくの手もとをのぞきこんだ。
「いま、中東の人らしい男たちが来て、靴下買って両替えしていったんだけど、彼がなんだか変だっていうんだよ」と、店長が説明した。
「ああ、やっぱり、やられました!」
 ぼくは叫んだ。8枚残っていなくてはいけない5千円札が、6枚しかなかった。ということは、手をつかまれて、なんだかゆびをさしたりしていたときに、しっかり握っていたぼくのゆびのあいだから、2枚抜き取ったということか(「そんな手品のような真似、うそだろう!」)。
 盗られたのはぼくだから、ぼくは自分のポケットから1万円をレジに返した。すると、店長と次長が、「盗られたのは共同責任だから、きみひとりで払うことはないよ、分担しよう」といいだした。そして、店長が3千円、次長が4千円出して、ぼくにくれた。ぼくは次長の顔を見た。
「ぼくが出かけたのがいけないんだから、ぼくがよけいに出すよ。そのかわり、ぼくも店にいたことにしてね」と、次長はいった(きっと、なにか私用だったのかな)。
「いいんですか? ぼくは助かりますけど」
 翌日、警察署から、写真の載っていない手配書がまわってきた。銀座界隈を荒しまわっている二人組のことが書かれていた。風貌は中東系、とあった。手配書を手にとって、店長はニヤニヤしながらぼくを見た。
「ちょっとおそかったな。あいつらかどうか、わからないけど」
 1カ月後に、上野のほうで捕まった二人組の写真が新聞に載った。あの手品師の顔だった。被害届を出さなかったから、盗られた金額はもどってこなかった。