会長の思い出

ぼくが入社したとき、永福町の会長は長く休んでいた。なまけものだという先輩もいたが、躁鬱病の傾向があることがあとからわかった。躁のときにはおしゃべりが止まらなくなり、社員のだれかをつかまえて、お客様がみえてもなんのその、壁際の隅に相手を押し込めたままずっと話しつづけるのである。そして、鬱のときには、出社しようと駅まで行くが、どうしても電車に乗ることができなくて、そのまま帰宅しまうのだという。つかまる相手は、おもに鎌崎店長だった。
 早番が夕方の5時半だったとき、会長の話が延々とやまなくて、店長はいつも7時ごろまでつかまって店にいた。たいてい、釜本次長が助け舟を出して、「店長、きょうは早帰りの日でしょ、早く帰ったら」と声をかけた。すると、いつでも会長は、「おう、もうこんな時間か、店長、早く帰れる日は早く帰ったほうがいいよ」といって、自分が先にそそくさと店を出て行くのである。店長も苦笑しながら、じゃあお先に、といって帰って行った。
 遅番は、8時半まで営業して、レジをしめ、シャッターを下ろし、タイムカードを押して退社する。だから、8時40分ごろに会社を出て、釜本次長と荻馬場さんとぼくが、地下鉄に乗るために地下道をおしゃべりしながら歩いていると、地下道の柱のかげに、立ち話をしている人の姿が眼に入った。先に帰ったはずの会長と店長だった。
 脇を通り過ぎながら、失礼します、と声をかけると、会長はおしゃべりを中断して、あ、ご苦労さん、といって、またすぐに話にもどった。店長は、あきらめたようなはかない笑顔をみせると、どうも、といって会長の話に耳をかたむけた。立ち話とはいっても、一方的なので、うなずくばかりである。店を出てからずっと話していたとしたら、すくなくとも、もう1時間半はたっている。店長のおでこに脂汗のようなものがにじんでいた。
 翌日、店長に、あれからおそくなったんですか、とたずねてみた。
「あれから、そうね、1時間くらいね」
 後年、ぼくがまだ川崎(多摩川をはさんで、田園調布の向かい側あたり)から通っていたとき、たまたま銀座線で渋谷まで、会長といっしょだったことがある。そのとき、会長は、岩波書店から出たばかりの「レオナルド・ダ・ヴィンチ素描集」の入った袋をさげており、ぼくはなんの気なしに、持ちましょうか、ときいてしまった。
「ああ、そうかい? ありがとう、助かるよ」
 会長はそういってぼくに袋を渡した。それが運のつきだった。
 電車のなかでもずうっと話を拝聴しながら渋谷に着いた。ぼくは東横線、会長は井の頭線に乗換えるが、すぐに、はい、といって袋を渡しづらくて、なんとなく井の頭線の改札まで持ってついて行った。ご存じのかたは、あのダ・ヴィンチの素描集の大きさと重さがおわかりになるでしょう。それはたいそう大きくて、ずっしりと重たいのです。なるべくなら、ぎりぎりのところまで、持ってあげるのが親切というものでしょう。
 会長が、そのまま改札を通り抜けて行くので、ぼくはあわてて声をかけた。すると、会長は、もう一度改札をもどってきて、そうか、きみはこの線じゃなかったな、といった。
「これ、お忘れです」
 ぼくは、ダ・ヴィンチの袋を差し出した。
「そうか、ほんとだ、忘れてた。それはそうと...」
 改札のそばの柱に押し付けられるようにして、ときどきとんでくる会長のツバキを浴びながら、だんだん持つ手に食い込んでくる袋の重量を感じていた。おでこに脂汗がにじんでいたかもしれない。話の内容なんか、とっくにどこかに行ってしまって、ただ、はい、はい、と生返事をしていた。だいたい、ダ・ヴィンチなんざこんな重たい業績を遺したりして、ほんとに罪だよな。
 だれかが通りがかって、翌日、あれからどれくらいああしていたんですか、ときいてくれたら、ぼくはいうもんね。
「そうね、あれから2時間ぐらいだったかな」
(つづく)