東西名匠展 その1

 日本橋高島屋となんば高島屋で、年2回、東西名匠老舗の会という催しがあります。東京は2月に、大阪は9月に催されています(東京のほうがおくれてはじまったため、春と秋では開催回数が違っています)。
 出店する店は、東は銀座のお店が中心となり、西は京都のお店が集まって、東西の粋と雅を競う恒例の行事になっています。フジヤ・マツムラはこの会がはじまったときからのメンバーで、社長は代々世話役の一人だったものですから、この会にかける意気込みはなみなみならぬものがありました(えーと、この会での出来事をおはなしするはずが、途中で脱線しましたので、おいそがしい方は、「後年」ではじまる行に飛ばれたほうがいいとおもいます)。
 とはいえ、昭和50年代のはじめごろは、2月といったらようやく契約した商品が海外からポツポツ入荷してくるころで、時期が早すぎて商品を揃えるのに苦労しました。ガラスの棚にハンドバッグなら50本は必要だったし、衣類のほうも、ハンガーラック(ハンガーにかけた上着とかコートを吊るす物干竿みたいなのがお店に立ってるでしょ。春物は、おもに軽いコートとかジャケット、スーツ、ワンピースなどをかけました)10本分は必要だし、広い平台に積んで並べる軽衣料(こちらは、薄いセーター、カーディガン、スポーツシャツ、ブラウス、ベスト、等々を売るほど山積みしました)も必要でした。ガラスケースのなかに指輪やネックレスの貴金属を飾ったり、その下にスカーフやハンカチ、それから比較的安いアクセサリーを並べたりしたのですが、こういうものも集めなくてはならなかったのです(すべて段ボール箱に詰めて運送屋のトラックで運びましたが、50箱くらいにはなりました)。
 ご存じない方にはわかりづらいかもしれませんが、フジヤ・マツムラは舶来品の万屋よろずや)だったのです。大きなものはミンクやチンチラのコートから、小さなものはハンカチ、靴下、小銭入れに至るまで、扱っていないものはなかったのです。なんでもいいですから、ためしに品物を想い浮かべてください。そう、それも取扱っていました。
 後年、ホテルオークラでお仕事をされていた野坂昭如先生が、夫人もまじえてどなたかと晩餐をともにされるという日に、突然お電話をくださったことがあります。人に会う格好をしてこなかったから、一式夕方までに用意してきてくれ、というものでした。一式というのは、まさに一式で、下着以外のすべてを用意しろということです。ワイシャツにネクタイ、スーツ、ベルト、靴と靴下、これだけ必要です。しかし、お気に召すかどうかわかりませんので、どれもひとつずつというわけにはまいりません。ワイシャツは既製のイタリア製を5枚、スーツも既製のイギリス製とイタリア製を合わせて3組、ネクタイ1ダース(おもにイタリア製)、ベルト5本(イタリア製)、靴3足(イタリア製)、それに靴下(これは黒なら間に合いますからイギリス製1足だけ)を揃えて、女子社員の納屋さんをともなって車で出かけました。
 指定された時間に指定されたロビーにまいりましたが、野坂先生はおいでになりませんでした。それで、フロントからお部屋に電話してもらいましたが、なぜか先生はいらっしゃいません。納屋さんを連れていったのは、ズボンの裾上げをしてもらうためでした。先生がどなたかとお会いになられる時間をおききしていましたから、逆算してどれくらい時間があれば裾上げが完了するか、出かける前に試していました。大雑把にまつっても10分かかります。ズボンは左右ありますから、20分必要なことがわかりました。
だんだん時間はたってゆくし、気が気ではありません。 いい加減しびれが切れたところに、若いホテルマンが鷹揚に、チリンチリンと鐘を鳴らしながら現れました。見ると、カードのようなものを掲げていて、「フジヤ・マツムラ様」と書かれていました。
 はい、と手をあげて、ホテルマンのところにいそぎました。
「野坂先生がお待ちです」
「どちらですか」
「バーでお飲みになっていらしたようで、ロビーで待ち合せていたんだけれど、とおっしゃいました」
「バーのほうへうかがえばよろしいのですか」
「いえ、お部屋にお戻りになられましたから、そちらにおいでください」
 ぼくと納屋さんは、あわててお部屋に飛んでいきました。すこし赤い顔をされた野坂先生は、ちょうど受話器を取ったところで、待って、と手で合図されました。
「ああ、野坂ですけど、じきに家内が車で着くんですが、駐めるところの手配をよろしく。車はベンツです」
 先生は、受話器を置かれると、もうあまり時間がないんだけれど、とつぶやかれました。たしかに、予定では30分あるはずの時間が、もう20分もありません。早速、まずスーツから決めていただくと、すぐに納屋さんが修理に入りました(裁縫道具をひろげると、ズボンを裏返して針をなめました。その姿には鬼気迫るものがありました)。
 つぎにシャツを選んでいただきました(先生は手が長いから、袖丈は直す必要がありません)。それからベルトをご覧いただき、ぼくはベルト詰めにかかりました。ベルトもフリーサイズのものを用意して、ウエストに合わせて修理する方法をとりました。バックルの部分を、ネジをゆるめて取り外し、本体の長い分だけ鋏でカットして、またバックルを取り付けます(註、2004-10-03「ワニベルト」参照)。
 その間、申しわけないですが、野坂先生にはセルフサービスでネクタイと靴を選んでいただきました。無言で先生は、ネクタイを胸にあてて鏡でみたり、ひとりで靴を脱いだりはいたりしておられました。
 夫人のベンツが到着する前に、ズボンの裾上げとベルト詰めは終わって、盛装に必要な一式が調いました。
「あ、あ、ありがとう」
 大作家の感謝にあふれる眼差しをあとにして、納屋さんとぼくは日の暮れた駐車場に向かいました。心地よい達成感が足どりを軽くしていました。
 後日、野坂先生はそのときの靴をひとに上げてしまったことがわかりました。先生は、小さい足のほうがエレガントだとおもう世代に属した方なのでした。たしかに、馬鹿の大足、などという悪口があります。それで、靴のサイズをきかれたとき、わざと小さめにおっしゃったのだそうです。食事をしているあいだに、だんだん靴が足を締め付けてきて、せっかくの晩餐だったのに、とても味わうどころじゃなかった、とボソッとおっしゃいました。
(つづく。横道にそれたので、次回あらためて、東西名匠展で起こった出来事をおはなしします)