看板職人 市川さん 序章

 手もとにある「ヨーロッパ退屈日記」は、昭和49年8月10日新装版第一刷です。
 「新装版あとがき」に、「山口瞳さんのお世話でこの本を出版することができた。十年前のことである」とあります。もともとの本のあとがきの日付は、1965年3月1日になっていて、伊丹十三さんはその当時、すでに外国映画に3本出演して、国際スターの仲間入りをしていました(まだ、伊丹一三といっていたころです)。しかし、新装版あとがきにあるように、その前には商業デザイナーの時期があったのです。
「私は駆け出しの商業デザイナーであった。いや、デザイナーなどという言葉は当時はなかった。われわれは版下屋とか書き文字屋とか図案家などと呼ばれる冴えない種類の人間であった。つまり、私は山口さんにとっては出入りの職人であったのである」
 当時、山口先生は、河出書房から出ていた「知性」という雑誌の編集部に勤めるサラリーマンで、その後の小説「江分利満氏の優雅な生活」で語られるように、家計は火の車でした。伊丹さんは、つづけてこう書きます。
「その日の彼の演出テーマは、おそらく最低の出費で最高の贅沢、これが即ち粋、とでもいうことを田舎者の私に教えることにあったのだろうが、しかし今考えるに薄給の若者が二人、メニューの一番安いものを注文しながら、高級な場所をハシゴしてまわったのが果たして粋であったのかどうかは疑わしいと思う」
  そして、「職人であった私に与えられる仕事は、主に、車内吊りのポスターと、目次のデザインであった」といっています。
 まだ伊丹さんが、いうところの職人だったときに、仕事をしていたのは、銀座並木通りに面したビルにある事務所でした(向かい側が資生堂本社、といったあたり)。
 そのビルの1階に、チロルという洋品店スポーツ用品店に近い店でした)がありました。オーナーは山とスキーが大好きで、好きが高じて自分で店をはじめた人でした。当時としては目新しいコカコーラの販売機(といっても、いまみたいに大きなものではなくて)が置いてあって、ときどき、仕事の途中を抜け出して、伊丹さんがコーラを飲みにやってきたそうです。伊丹さんを訪ねて、山口瞳先生や大江健三郎さん(奥様は、伊丹さんの妹)が始終やってきて、チロルが一時溜まり場になっていたといいます。
 こんなむかし話をしてくれたのは、シャツ職人の市川さんです。市川さんは実家が青山でワイシャツ屋(註、2004-09-5「加藤さん」参照)を営んでいたので、大学生のとき、おつかいに銀座までシャツを届けに行ったところ、ちょうど外出しようとしていたチロルの社長に、ちょっと店番していてよ、とたのまれて、そのままずっと店を手伝うようになってしまったのでした。
 大井のシャツ職人、加藤名人のあとを継いで、フジヤ・マツムラの看板職人となった不遇の天才市川さんのことを、ちょっとお話しようとおもいます。