市川さんの話 1

 戦争が終ったとき、市川さんは小学6年生でした。
 はじめに疎開したのは、静岡だったといいます。それまでは、家族といっしょに青山の家で暮らしていました。
 戦前、市川さんの家には、住み込みの職人さんが20人くらいいました。お父さんがシャツ職人の親方だったからです。
 市川さんのルーツをたどれば、栃木県の材木問屋に行き着くそうです。おじいさんが道楽者で、身上をつぶして東京へ出てきて、神楽坂に住むようになったようです。
 そんな事情で、お父さんは早くから働きに出なくてはならなかったわけですが、当時はまだハイカラだったシャツに眼をつけました。いまでも有名な、あるシャツ店に奉公に入って、みっちり年季を積んで一人立ちしました。しかし、もっと習得する技術がありそうな気がして、神戸の南京町にまで行って修行したのだそうです。
 市川さんが生まれたのは、青山の家です。青山通りから、ベルコモンズの交叉点を千駄ヶ谷方面に登りきった、交番のとなりでした。小僧のような職人が、同じ屋根の下に20人も暮らしていました。
 市川さんは、小さなころから、職人たちがミシンを踏む職場のなかで遊んでいました。
 骨董屋さんの小僧さんは、骨董のよしあしを見分けられるようになるまで、けっして偽物や出来のわるいものを見せてはもらえないそうです。本物だけを見るようにご主人からいいつけられて、来る日も来る日も本物ばかり見つづけます。そして、ある日、突然、天啓のように、いいものとわるいものが見分けられるようになっている自分を、発見するのだそうです。
 市川さんは、幼いころから職人にかこまれて育ったわけですから、職人がなにをしているのか、ずっと見ていたことになります。後年、その成果が確実にあがるのです。
 小学生の市川さんが、 はじめに疎開したのは静岡でした。いやでいやでたまらなかったので、級友と語らって脱走しました。駅まで行けば、東京行きの汽車があるとおもいました。それで、まっすぐ近くの駅に行ったら、先回りした先生につかまって、あえなく連れもどされてしまいました。だから、2回目に脱走したときは、近くの駅には向かわずに、となりの駅まで歩きました。家に帰ってくると、お父さんは、そんなにいやなら、もう行かなくてもいいよ、といってくれました。
 しかし、東京の空襲が激しくなると、もう悠長なことはいっていられません。静岡から青森に移動する級友たちと合流して、いっしょに青森に行きました。疎開先の青森は、あまりにも遠くて、脱走する気にはなれなかったそうです。
 終戦になって、青森からもどってきました。原宿の駅に降り立ったときには、焼け野原がひろがっていました。人の姿もほとんど見えなかったそうです。家に帰ってみると、あたり一面焼けていて、なにもありませんでした。家の跡のこわれた水道から水が出ていたので、ともかくそこで暮らすことにしました。しばらくすると、もどってきた近所の人が気づいてくれて、食べるものを運んでくれるようになりました。
 近所の人にきくと、両親たちは群馬県の前橋に疎開していることがわかりました(前橋も戦火を受けて焼けたので、青山と、前橋と、2度にわたって焼かれてしまい、せっかく分散した家財はすべて灰になったそうです)。
 この戦争で、20人いた職人はみんな出征していきましたが、戦争がおわってもどってきたのは4人だけでした。
 (つづく)