市川さんの話 2

 市川さんのお父さんは、職人たちが出征したあと、陸軍の兵隊たちのシャツを作っていました。丸首の下着のようなやつです。それで招集は免れたのですが、仕事をしていると、よく憲兵が何人かでやってきてはいやがらせをしたそうです。
「貴様は、兵役にも出ないで、のうのうとミシンなんか踏んでおって、非国民だとおもわんか」
 そんなときは、きまって奥さんが裏から飛んでいって、近所の陸軍大将をつれてくるのでした。陸軍大将は、市川さんのお父さんのシャツのファンだったのです。
 憲兵が弱いものいじめしているところへ、軍服で身を固めた陸軍大将が、ごめん、といって入ってきます。
「市川さん、こんにちは。いつも陸軍のために精を出してくれてすまんのう。ところでわが輩のシャツはどうなっておるかね。いや、いそがんでもかまわんですぞ。貴君がいないとわが輩は困ってしまうということだけ、忘れんように。陸軍のためにも、わが輩のためにも、身体を大事にしなさい。ん? (と、憲兵たちにはじめて気づいた顔をして)おぬしたちも、ここにシャツを注文にきておるのか。あん?」
 憲兵たちは、直立不動で敬礼して、失礼しましたといって、気まずそうにそそくさと帰ってゆくのでした(大久保彦左衛門に庇護された、一心太助の気持がわかるような気がします)。
 職人たちが兵隊に行ってしまったあと、しばらくして、市川さんのお父さんは、朝鮮の人を下職に入れて、仕事をまかないました。手のあいている成人男子なんか、どこにもいなかったのです。さいわい真面目な人で、黙々と仕事を手伝ってくれました。市川さんのお父さんには、いわゆる偏見がありませんでしたから、平穏無事でいられるなら、その人を一人前の職人に仕込みたいとおもったようです。
 ところが、3月の東京大空襲のあと、青山あたりでも疎開する人が増えてくると、市川さんのお父さんも考えざるを得ませんでした。子どもは学校で地方に疎開しています。つてを頼って、前橋に疎開することになりました。そのとき、家のなかにところせましと積み上げてあった生地の山をどこかに疎開しておけば、戦後、それだけで一財産が築けるところでした。
 前橋でも焼け出されたのですから、けっきょく燃えてしまう運命の生地だったのかもしれません。真面目な朝鮮人の下職の人とも、終戦になって平安な日が訪れたのに、とうとう会うことはありませんでした。
(つづく)