市川さんの話 3

 市川さんの少年時代のことを話しているとキリがないから、すぱっと割愛しましょう。
 高校を卒業しようとしている市川さんがいます。とくに進学は考えませんでした。そのため、すでに銀行に就職が決まっていました。
 市川さんにはお兄さんがいますが、どうもお父さんは弟の市川さんのほうにシャツ屋を継いでほしかったらしく、就職が決まったといっても浮かない顔をしていました。
 ところが、友だちの多くが大学に行くと知って、市川さんは気が変わりました。銀行勤めはやめることにして、1年間、浪人することにしました。
 喜んだのはお父さんです。べつに家業を継ぐといったわけではないのに、就職しないでいれば家の仕事につく可能性がありそうだ、とおもったようです。しばらく仏頂面をしていたのに、やめるときいたとたんにニコニコしだしたそうです。
 夏休みは、家の手伝いで、お父さんのこしらえたシャツを銀座のいくつかのお店に届けるアルバイトをしました。お父さんは、市川さんがミシンを踏まなくても、家の手伝いをするだけでニコニコしました。この苦労人の職人さんは、きっといつか息子がミシンを踏む日がやってくる、と確信していたようです。そして、ほんとうにその日はやってくるのです。
 店番をたのまれた市川さんは、そのチロルという店のなかに間借りをしている青年に気づきました。なにか一心にデザインしています。のぞき込むと、すばらしいタッチでスタイル画が描かれていました。後年、市川さんはそのときの印象を、とってもやさしい話し方をする人で、なんともデッサンが上手だったんですよ、と語っています。青年は服飾デザイナーで、自分の作ったものを、チロルの一隅を借りて商売していたのでした。名前を芦田淳といいました。
 チロルに勤めだした市川さんは、急激にシャツに関心を持ちはじめました。シャツは家の芸です。お父さんに教えてほしいというと、待ってましたといわんばかりに喜んで、型紙からなにから一切合切伝授してくれました。この息子は、裾巻き3年といわれるシャツの裾のラウンドした形を縫うのに、何カ月もかかりませんでした。お父さんのにらんだとおり、お兄さんと違い、子どものころから職人たちのあいだをチョロチョロしていた市川さんにとって、技術の半分は眼で見て体得したも同然だったのです。
 チロルの社長は市川さんに、既製のシャツが1枚売れたら1枚オーダーをとってもいいよ、といってくれました。お父さんがこしらえた既製のシャツを1枚売れば、自分の仕立てるシャツを1枚売ってもいいというのです。これは市川家にとっては、一石二鳥ではありませんか。いいデザインなら、よけいに売れそうにおもえました。
 芦田さんに刺激を受けた市川さんは、桑沢デザインスクールに通いはじめます。そこでまた、若き日の君島一郎に出会いました(「君島さんのデッサンがまたものすごく上手で、自分の才能の乏しさと限界をおもい知らされて、デザインスクールに通うのはやめてしまいました」)。
 しかし、市川さんは、親方から型紙をもらってそのとおりにしかシャツを作れない多くの職人とは違っていました。シャツは評判になって、チロルによく顔を見せにくるまだ若くて無名な俳優は、金があったらみんな買い占めちゃいたいな、と眼をかがやかせました。その後有名になるその俳優の名は、高倉健といいました。
 芦田淳さんが、チロルからどこかへ引っ越す日がきました。野に伏していた竜が、いよいよ天に昇るときがきたのでした。芦田さんは市川さんに、「いっしょにきませんか」と声をかけてくれました。
 (つづく)