市川さんの話 4

 市川さんが芦田さんの誘いにのらなかったのは、いつか自分も一国一城の主になろうとおもったからです。鶏口となるとも牛後となるなかれ。そんな青雲の志が生きていた時代の話です。
 有名になった俳優は、市川さんの作ったシャツで映画に出ました。撮影のとき、水に落ちるシーンがあって、当然シャツも濡れてしまいました。乾かしては撮影しましたが、まったくハカが行きません。助監督が、あわててチロルにシャツをオーダーしに飛んできました。
「シャツを半ダース、大至急こしらえてください」
「大至急って、いつまで」
「あしたまで」
「冗談じゃない。それじゃあ、水通しした生地だって乾いてないよ」
「乾いたらもらえるんですか」
「わからない人だね。シャツを縫う前に、生地の段階で水通しして、表面の松ヤニをおとしたり、これ以上詰まらないというところまで生地を詰めておくの。地づめね。それから、型紙に合わせて大雑把に生地を切っておいて、そのひとつひとつをカラーやらカフスやらにこしらえていくのさ。半ダースなら、2週間はもらわなくっちゃ」
「それじゃあ、半分の3枚にして、あさってまで」
「このひとは馬鹿だね。なんで半ダースで2週間なのに、3枚があさってなのさ」
「シャツのために撮影待ちで、健さんだけじゃなくて、みーんなぽかんとしているんです。撮影できなきゃプー太郎といっしょですよ。なんにもしなくったって、金かかるんですから映画は」
「...」
「どうか、おねがいしますよ」
「よし、3枚でよければ、あさっておいでよ、こさえておくから」
 2日後にまた助監督がやってきます。
「ああ、そこの袋に入っているから持っていきな」
 助監督が袋のなかをのぞきこむと、シャツが半ダース入っていました。
「でも、どうして」
「夜、寝るから2週間いるんだよ。寝なきゃ、どうってこたないやね」
「ありがとうございました。ほんとに助かりました」
 さようなら、といって助監督がガラス戸を閉めたとたん、市川さんは仕事場の床に崩れ落ちて、まる1日、こんこんと眠りました。
(つづく)