市川さんの話 5

 市川さんが職人になってもらっていたお給料は、当時の大卒の4倍でした。
 そのころの市川さんの夢は、銀座にアトリエをもって横浜の山手に家を建てることだったそうです。それだけの収入があれば、将来けっして夢ではありませんでした。しかし、市川さんは江戸っ子だったのです。
 三代続いたわけではありませんが、十分その気質を備えていました。なにより二十代前半で、遊びたい盛りだったわけですから、なかなかお金は貯まりません。また、ちょっと働けば人並み以上の稼ぎになるとおもえば、たいていの人は先につかっておこうとおもうでしょう。なんたって、銀座にいるのですから。
 当時、銀座並木通りのチロルという洋品店から眺めていて、どんな人がおしゃれだったか市川さんにきいたことがあります。
「十朱久雄さん」
 すぐに答えがかえってきました。
 十朱久雄という人は、十朱幸代さんのお父さんです。映画の脇役によく顔をみせていました。髪が薄いのですが、なんとなくポマードがにおってくる感じのおしゃれでした。 もっとも、当時の整髪料はポマードがメインでしたから、たいていの人がポマードで髪を固めていました。
淡路恵子さんとか、森雅之さんなんかが夜の銀座を流していましてね。とっても格好よくって、大人の雰囲気をまきちらしていました。銀座は、大人の街だったんです。いつか自分も、ああいうかっこいい大人になりたいっておもったもんです。銀座はわたしの大学だったんです」
 市川さんは、25歳で結婚します。相手の女性は、SKD(松竹歌劇団)のダンサーでした。ダンサーというと、ちょっと年配の人なら眉をしかめるかもしれません。なんとなくくずれた印象があるからでしょう。しかし、市川さんの結婚した女性は、もちろんきちんとした人でした。日舞の名取りでもあり、むしろ古風な女性でした。
 彼女は駒場の資産家のお嬢さんで、渋谷を中心にあちこちに自分名義の家屋と土地を所有していましたが、市川さんにとってそんなものは問題ではありませんでした。青年市川は、100パーセント恋に落ちたのです。それはおたがいにとって激しい恋愛でした。楽しくていつもいっしょでした。
 ふりかえってみると、ちょうど20年後に市川さんと最愛の一人娘を残して病に倒れることを予感したような、時間がもったいなくてとてもこうしてはいられない、というような、そんな結婚生活がはじまったのでした。
 (つづく)