市川さんの話 6 (でもほぼ余談)

 ここでぼくの話をします。退屈でしょうが、おつき合いください(おいそぎの方は、ずっと飛んで、「ようやく本題に入ります」からお読みください)。
 高校2年の終わりに、進路によってクラス分けがありました。ぼくのいた高校は、ほとんどが大学進学を希望していたので、進路というのは文科系か理科系かということでした。ぼくは文化系志望でした。
 文化人類学は、いまでこそ知らない人はいませんが、当時はまだようやく名前がついたばかりの新しい学問でした。いや、きちんと認められていたわけではなくて、なんとなくうさんくさい分野だな、というのが大方の印象だったようにおもいます。その傍系に、言語人類学というのがあって、ぼく的にはそれを勉強したかったのです。
 しかし、人類学自体が出来立てのほやほやだったため、どこの大学にも学科があるというわけにはいきませんでした。そこで、つい背伸びをしました。ぼくは、国公立文科系というクラスを希望しました。1年のとき担任だった小嶋先生も、3年でそのクラスを担当するはずでした。
 ところが、まもなく、小嶋先生が理科系を受け持つことになったという情報が飛び込んできたのでした。これは番狂わせです。小嶋先生は、もともと国語古文の先生で、理科系のクラスをもつなんて考えられないことでした。
 さっそくぼくらは、小嶋先生に談判に行きました。ぼくらというのは、岡野と小山と、長谷川、辻本、それにぼくです(友だちの名前を並べたりして、どうかしてるね)。職員室の外の廊下で、どうか文科系にきてください、とみんなで懇願しました。先生は、しばらくまぶしそうな顔でみんなを見まわしていましたが、もうきまったことだから、ときっぱりといわれました。
 3年の新学期がはじまって、ロビーの掲示板を見ると、文科系のクラス分けの表のなかにぼくらの名前はありませんでした。あろうことか、小嶋先生のクラス、国公立理科系に編入されていたのです。
 小山と長谷川、辻本は、すぐに文科系のクラスに移りました。岡野とぼくは、なんとなく、小嶋さんのクラスなら、理科系でもいいや、といった感じでした。小嶋先生という方が、それくらい魅力的だったのです。「おそ松くん」のイヤミのような風貌で、実際にイヤミというあだ名がついていました。そうして、じきに小山だけ戻ってきました(彼は私大文科系志望で、受験科目は3科目だけでしたから、数学と物理化学につき合ってもいいや、といいました)。
 さて、しかし、考えてもみてください。国立文科系を志望するというのは、国語、数学1・2、英語のほかに、社会科から2科目、理科から1科目選択するということです。ぼくは、日本史と世界史、それと生物を選択しました。ところが、理科系のクラスときたら、数3と物理・化学が必修です。どれも文科系を受験するには不必要な科目です。
 ぼくは、だから、高校3年の1年間、国語、数学3、英語、日本史、世界史、生物、物理、化学の8科目と格闘していました。5科目だってたいへんなのに。そして残念なことに、卒業してから2年も浪人することになりました。しかし、べつにそのせいだとはおもいません。本人は、なんといっても、そんな状況をおもしろがっていたのですから。
 ぼくは、取り立てて優秀な生徒ではありませんでした。しかし、センスはあったとおもいます。足りなかったのは、それ以前の基礎学力です。中学までのんびりしていたツケがまわってきたのです。それはよくわかっていました。
 ぼくは、優秀でなかったから、努力せざるをえませんでした。周回おくれのランナーみたいなものでした。追い上げて、追いついてからがスタートだとおもっていました。もう1年浪人していたら、高校生活をひとの倍やったことになります(遠藤周作さんがそうでした。安岡章太郎さんもそうかもしれません)。
 世の中には、努力しなくても出来る人がいます。うらやましいかぎりですが、仕方ありません。しかし、と威張るわけではありませんが、だからこそぼくは、わからない人のわからなさがよくわかります。よく出来る人は、わからないなんてことがわからないから、じつは教えることが下手クソです。わからなかった経験のない人にわからないといっても、理解できないのでしょう。
 ようやく本題に入ります。市川さんも下職、すなわち弟子を雇ったことがありましたが、うまく育ちませんでした。市川さんは、下職のやった仕事が気に入らなくて、また自分でやりなおしたりしました。カラーの出来が気に入らなければ、自分で外して付け替えました。これは、市川さんが優秀な職人だったことを意味しています。と、同時に、弟子を育てられない職人であることも意味しています。日本中の名人といわれる職人が、結局自分ひとりで終ってゆく理由がおわかりいただけるでしょうか。最高の技術は、ほとんどの場合、継承されないのです。それは、職人本人に問題があるのです。
(つづく)