市川さんの話 7 (のつもりが、ぼくの銀座の思い出)

「銀座界隈ドキドキの日々」という本があります。著者は、和田誠(じつは、ぼくは、和田先生のことを呼び捨てにできない立場にあるのですが、失礼してこう書かせていただくことにします)。「銀座百点」というタウン誌に2年にわたって連載され、文藝春秋から単行本として刊行されました。
 この本は、和田誠が銀座の広告会社に就職した1959年から、退社して独立する1968年までの9年間の出来事が書かれています。お読みでない方は、ぜひ読まれたらいいとおもいます(文春文庫に入っているはずです)。
 この本で、まず面白いのは、デザイン会社の社内風景が描かれたカバーを外してみると、本体の表紙に銀座の地図が描かれているところです。しかも、1963年当時の銀座の地図で、いろんなお店が書き込まれています。いまはなくなってしまったお店の名前もたくさん見られます。ベトナムボートピープルの少年が、ぼくに親切にしてくれた光蘭亭や、綿貫君がぼくにしょっちゅうおごらせたお多幸があります。ジュリアンソレルや白馬車、それから大きなクラブだったクラウン、鮨屋の魚治、きしめん亭、らんぶる、ローマイヤ、近藤書店、イエナ、ミュンヘン、カリオカ、田園、ピルゼン、東興園、愛情ラーメン、守屋ワイシャツ、それから日劇。ぼくの知っているお店や、名前だけしか知らないお店が、地図のなかにまだ生きています。
 だいいち、この地図には、まだ8丁目の向こう、銀座9丁目は水の上、と歌われたところに川が流れています。銀座には、むかし、川が流れていて、掘り割りのようになっており、橋がかかっていましたが、だから新橋や土橋、数寄屋橋といった地名が残っているわけです。それが、1963年、東京オリンピックの前の年にまだ流れていたなんて、ずいぶんとおどろかされます。ぼくが銀座にチョロチョロ出入りするようになったのは、その5年後のことですが、もうすっかり川なんかなくなっていました。
 この地図にはありませんが、ウエストの近くのビルの地階に蔵王という大きな喫茶店があり、ホットドッグがおいしかったのですが、それとコーヒーで、いつも3時間くらいだべっていました。この地図には、まだレンガ屋も見られませんが、レンガ屋と同じビルにあったパリシェも、溜まり場のひとつでした。コーヒーをたのむと、パンケーキがついてきました。いまでもある清月堂も、改装前の渋い造りの店によく行きました。行くたびに、なぜかニュースキャスターの入江徳郎さんと顔を合わせたので、しまいに、先方から、やあ、と挨拶されるようになりました。生意気な学生は、平気で、どうも、などと返していましたが、いまおもうと冷や汗が出ます。お酒が飲めないので、コーヒーのはしごなんてこともよくやりました。
 この地図に、市川さんのいたチロルはちゃんと載っています(なぜかフジヤ・マツムラの名前が見当たりません。和田先生が関心がなかったということでしょう)。ぼくらが銀座をウロウロしていたとき、市川さんも当然銀座にいて、たがいにどこかですれ違っていたかもしれません。しかし、ぼくが市川さんと出会うのは、まだ10年先のことです。
(つづく)