市川さんの話 8 (もう完全にぼくの思い出話)

 「POPEYE」の創刊号が発売されたのは、1976年6月のことでした。ぼくは、矢村海彦君から教えられて、4号目か5号目から買いはじめました。すぐに創刊号を除くバックナンバーは揃ったのですが、創刊号は発行部数がすくなく、手放すひとも滅多にいなかったので、なかなか手に入りませんでした。法外な値段で入手したのは、数年後のことです。
 これは、いまでいうカタログ雑誌のようなもので、あまりよく知らなかった情報が満載でした。トップサイダーのデッキシューズとか、ラコステのポロシャツ、LL.ビーンの長靴、ピーターストームのセーター、セイコーの女性用ダイバーウオッチ、クラークスのワラビー、グルカバッグ、クイックシルバーの海水パンツなどなどが毎回紹介されて、そのたびに売っているお店に見にいったのでした(なんたって、ミーハーだからね)。
 青山のベイリーストックマンにコンバースのスニーカーをさがしに行ったのは、矢村君が、そこにあるよ、といったからかもしれません。まだ角にあったVANのお店とベルコモンズのあいだの通りを、千駄ヶ谷方面に上がっていって、ちょうど登りきった右側にベイリーストックマンはありました。ぼくにとってははじめてのアメリカ製の靴で、よく考えてみたら、そのとき、どうもサイズのことがすんなり呑み込めなくて、買わずに帰ってきたような気がします。ぼくの足は25センチで、アメリカのサイズに合わせると7インチ、イギリスサイズだと6.5インチになります。最後の1足が残っており、お店のひとは早いとこ売ってしまいたくて、ぼくに適当なことをいってるような、インチキくさい感じがあったのです。
 そうだ、ぼくは買うのをやめて、道の反対側にわたり、ゆっくりと坂道をくだって、VANに寄ろうとしていたのでした。なんで、いま、こんなことを思い出しているのだろう。わたった側の正面にガラス戸の並んだ古い家があり、なかをなにげなく見ると、カウンターがあってだれかが立っていました。頭の片隅に、いま、その映像が浮かびましたが、べつにぼくは、その家がなにをしている家なのか、興味をもったわけではありませんでした。ガラス戸にぼくの姿がうつったので、髪が乱れていないか見ただけです。
 その家が、市川さんの実家で、オーダーシャツのお店でした。ぼくは、上を見上げなかったので、看板に気がつかなかったのでした。市川さんと出会うのは、それから2年後のことです。
 ぼくは、1983年に結婚しました。あいかわらず「ポパイ」は刊行されていましたし、あらたに「ブルータス」も創刊されていました。結婚した月までの全册が揃った「ポパイ」と「ブルータス」は、引っ越し騒ぎのとき、整理した本の山といっしょに古本屋に持ってゆきました。ところが、わざわざ車に積んでいったのに、雑誌は買い取れない、とことわられました。段ボール箱に4箱分、何百冊です。
 じゃあ、お金はいらないから、おたくで処分してよ、持って帰ってもどうせ捨てるんだから、とぼくはいいました。引っ越し先には、それだけの余分なスペースはありませんでした。
 「ポパイ」のどれかの号には、チロルとチロルの社長が紹介されています。そのときは、まだあったのです。2年後、ぼくが市川さんと会ったときには、もうチロルはありませんでした。
 古い「ポパイ」が、いま、古本屋で、ずいぶん高額な値段がついているのを見ると、ぼくは、あーあ、と溜息をつきます。
(つづく)