市川さんの話 13 (やっとタイトルどおりになりました)

 如来化成(株)の縦島氏(会社名も個人名もともに仮名)は、上得意のひとりでしたが、会社の社長なのに偉ぶらず、いつもひょうきんに冗談をいってみんなを笑わす方でした。下町生まれの下町育ちで、気っぷのいい江戸っ子でした。
 その縦島氏が怒ったことが2度ありました。
 1度目は、うっかり値引きをしたときでした。いつもお帳面で買い物をされていましたから、毎月1回請求書が郵送されます。それが着いたか着かないうちに、縦島氏は飛んできました。
「おい、なんで値引きなんかしたんだ! だれが値引きしてほしいって頼んだ? 冗談じゃないぞ。まるで、おれがビンボーしてるみたいじゃないか」
 2度目は、ワイシャツの担当職人が、加藤さんから市川さんに変わったときでした。
 加藤さんが、「体力の限界」といって引退した横綱のように、「もう根気がなくなった」といって引退したあと、加藤さんにまわしていた仕事は、すべて市川さんにまわされました。もともと、加藤さんも市川さんのお父さんに仕込まれた職人ですから、つくり癖のようなものはいっしょです。顧客には、職人が変わったことは、まずわかりません。しかし、どう見てもわかってしまう事件が起きたのでした。
 ある日、縦島氏が血相を変えてドアを開けました。
「バカヤロー! 」
 日頃、仏様のように穏やかな縦島氏が、ブルブル怒りに震えていました。縦島氏は、実際、信仰に厚く、仏教に帰依するあまり背中に如来の彫り物をしているという噂でした。だから、会社名も如来化成とつけたのでした。
 職人さんには、注文を受けると、その顧客の寸法と特徴を記入した加工伝票というものが、生地といっしょに届けられます。その寸法に合わせて、職人さんは型紙をこしらえ、生地を裁断するのです。ところが、この伝票には盛りきれない注意事項がある場合があります。
「友だちと大勢で温泉旅行に行ったんだ」
 縦島氏は、興奮して、肩が息をするたびに激しく上下しています。
「せっかくだから、作ったばかりのワイシャツを鞄に入れてって、風呂から出たらおろして着ようとおもっていたんだ。友だちに、きみんとこの素晴しいシャツを、見せびらかしてやるつもりだったんだ」
 縦島氏は、思い出すと、ブルッと身体を震わせました。
「それが、なんだ。いざ、風呂を出て、シャツを着てみたら、裾が短くて、ケツまでしかありゃしない。仕立てのシャツというのは、裾がタップリしていて、うしろから前にまわして、金玉まで覆わなければ値打ちがないじゃないか。おれは、既製のシャツを着ているのかとおもわれて、とんだ恥をかかされた」(女性の読者の方には、不適切な表現が含まれております。眼をつむってお読みください)
 縦島氏の場合の注意事項というのは、つまりそういうことでした。昔のワイシャツは、パンツをはく必要がないように、うしろ身頃をうんと長くして、褌のように前を覆っていたものもあったのです。
 長くひとりの職人が担当していると、職人にとっては当たり前の事柄が、店の担当者が何人か替わったら、申し送られていないことがあるわけです。特にズボラな社員のあとは、台帳にこのような記入漏れがたくさん出てきます。顧客にそう注文されて、口頭では職人さんに伝えたけれど、自分のほうは台帳に書き忘れた例は、あげたらキリがありません。職人さんは、自分でメモをしてありますから、次の伝票でそのことが抜けていても、変更と書かれていなければ、ちゃんと前回通りに作るのです。
 職人と話がしたいからおれに会わせろ、と縦島氏はいいました。さあ、大変です。市川さんは、自分が知らないことで、会ったこともないお客様からお叱りをこうむるハメになってしまうのでしょうか。
 その日がやってきました。市川さんには、きちんと訳を話しておきました。縦島氏が到着しました。固唾をのむ一瞬です。
「やあ、あなたが職人さんか。ご苦労さん。いやね、おれの好みをもう一度確認して、どれくらいの折り返しがおれにはいいのか、見てもらおうとおもって、来てもらったの」
 そういって縦島氏は、上着を脱ぎました。
 市川さんは、だまって縦島氏の首のうしろの中心から、巻き尺で寸法を計りはじめました。背中を通って、お尻から股間を抜けて、おへそのあたりまでの寸法を採りました。縦島氏はやや足を開いて、虚空を睨むようにして立っていました。
「これくらいのあたりで、いかがでしょう?」
 市川さんがたずねました。
「えっ? ああ、あなたがいいとおもうところでいいですよ」
 大変なことになりそうだった会見は、これで終りました。すこし拍子抜けしました。
「せっかく職人さんが来てくれたんだから、ワイシャツ作るかな。白の無地で1枚。いや、3枚作ろう」
「有難うございます」
 市川さんが頭を下げました。
「あなた、前の職人さんじゃないだろう? おれは、以前のと今度の、並べて見くらべたんだ。そうしたら、実によく似てるんだ。でも、カフスの開いてるとこのボタン、え? 剣ボロっていうのかい、前のには付いていないのに、今度のは付いていたんだ。ははん、こりゃあ、職人かわったな、とピンときたね。じゃあ、前通りにやれっていってもできないわけだ。それなのに、あなた、おれに言い訳しないで叱られる気だったね」
「いえ、そうじゃなくて、ちゃんとお好みをうかがって、次のシャツを気持よくお召しいただけるようにしたかっただけです」
「泣かせる答えしやがって。なら、おれも江戸っ子だい。もう1枚、追加だい」
(つづく)