市川さんの話 14

 市川さんのいたチロルという店の顧客には、当時の有名人もたくさんいました。東京急行電鉄(東急)の五島慶太氏もそのひとりでした。
 自由が丘に新しく東急のビルが建ったとき、五島氏はチロルに声をかけました。
「お宅の支店をうちのビルに出せよ。敷金も礼金もいらないぞ。家賃だってまけてやる」
 顧客のほうが、かえって店のタニマチみたいな時代があったのです。収入に結びつかなくても、自分の好きな店が入ってくれたほうがいいや、と五島氏はおもったにちがいありません。
 チロルが傾いた理由を、市川さんにきいたような気がしますが、忘れました。チロルの社長が突然なくなると、なぜか店には借金しか残っていませんでした。辛うじて、独立採算でやっていた自由が丘の店は残りました。しかし、社長夫人は商売には興味がなくて、自由が丘の店は、担当していたイッチャンがやることになりました。この支店は、顧客の応援で、一時は前よりも繁盛しました。
 ところが、あとでわかったことですが、チロルの社長はちゃっかりどこかに自分のビルを建てていました。残された夫人は、ビルのオーナーにおさまって、安泰だったのです。
「なーんだ、っておもいましたね」
 市川さんは、あきれた顔でいいました。「イッチャン以外はみんな、もう1度仕事をさがさなきゃならなくなったのに、ほんとは裏でビルが建つくらい儲かっていたなんて。まあ、相手は社長だからそれも仕方ないことだけど、社員が失業してるのに、仕事にぜんぜん関係なかった奥さんがホクホクしてるってきいたら、なんだかガッカリしましたね」
 市川さんは、よそにいくつか仕事口があったけれど、きっぱり断ったようでした。実家の仕事場で、お兄さんと肩を並べて仕事をするほうを選びました。チロル以来の顧客が、青山にも顔を見せてくれました。
 そんな市川さんに声をかけたのは、大井の加藤さんでした。加藤さんの仕事先のフジヤ・マツムラが、とても繁盛していて、加藤さんだけではとても仕事をさばききれなくなっていたからです。
「月に20枚でよければ、やってもいいですよ。それ以上はこまる、っていったんですよ、自分のほうの仕事があるからって。そうしたら、それでもいいです、手伝ってくださいって、砂糖さんがいってくれたんです、ギョロッとした眼で」
 (つづく)