市川さんの話 16

 市川さんは、月に20枚の約束で、フジヤ・マツムラの仕事を引き受けました。砂糖部長が、それでもいいからやってくれ、と懇願したからです。ところが、いつの間にか枚数がふえてしまい、自分の古くからの顧客にまで、手がまわらなくなりました。チロル以来のなじみの顧客は、あてにならない市川さんを見限って、よそで作るようになりました。それはそうでしょう。いくらうまいそば屋があったとしても、いつ出前をとどけてくれるか見当がつかなかったら、注文なんかしませんね。
 市川さんは、そのいちばんたくさん仕事をした年がいつだったのかも、あまりにいそがしくて忘れてしまいました。
「とにかく、かぞえてみたら、年に500枚はこしらえていたんですよ、その年は」
 365日全部働いたとして、2日で3枚縫っていた勘定になります。これは、実際には不可能に近い数字です。なぜって、いいですか、ワイシャツをこしらえるには段取りというものがあるのです。
 まず、生地を水につけて糊をおとす、地詰めという作業があります。これには、バスタブがいちばんですから、最初に風呂場の掃除からはじめます。バスタブがきれいになったら、水を張って生地を浸けておきます。生地表面の糊がおちたら、水からあげて物干に干しておきます。これで1日かかります。
 つぎに、乾いた生地にサッとアイロンをかけて、粗裁ちをします。あらだち、というのは、衿の部分や、袖や身頃といった各パーツを、適当な大きさに切り分けておくことです。適当に、といっても、からだの大きい人と小さい人では、パーツの寸法も違ってきますから、きちんとカットします。ここで、袖やポケットにネームを入れる人の場合は、その生地をネーム屋さんに送ります。
 ネームの刺繍屋さんは、以前は近くにいたので歩いて届けていましたが、青山を売って郊外へ引っ込んでしまったので、郵便か宅急便を使って送らざるを得なくなりました(青山の20坪ばかりのあばら屋を売って郊外に移り住むと、大きな一戸建てに住めて、しかもあとは一生遊んで暮らせるそうです。だったら、ネーム刺繍なんかやらなくてもいいようなものですが、こうなると、もう、趣味のようなものなんでしょうね。土地成金の農家の人が、ついつい残りの土地を日がな耕してしまうのと似ています)。ネームがもどってくるのは、約1週間後です。
 さて、その間に、カラーをこしらえたり、カフスをつくったり、もう片方の袖をそでの形に縫ったりします。身頃も出来あがって、ネームのついた袖の生地が返ってくるのを待って、俄然いそがしくなります。身頃にカラーを取り付けて、袖にはカフスをくっつけて、それを今度は本体の身頃に縫い付けます。これを、まとめる、といいます。ここまで終えるのに、2週間かかります。もちろん、1週間でも、やれば出来ますし、3日でもできます。ただし、1枚だけでしたら。
(つづく)