市川さんの話 17

 市川さんが下職をつかったのは、きっとこの時期だったに違いありません。そうでなければ、年間500枚のワイシャツを作るなんて、物理的に無理です。
 大井の加藤さんは、仕事場の棚の上に、たくさん生地が載っているとご機嫌でした。本人はご機嫌かもしれませんが、棚に生地があふれ返っているということは、とりもなおさず仕事がおくれているということです。本人はよくても、シャツの担当者は、そのたびに泣かされるわけです。そのころは、有金君が担当していました。
「おい、おれのワイシャツはどうなっているんだ?」
 日に何人も、そういって怒鳴り込んでくる顧客が出てきます。
「はい、えーと、もうかかってますから、じきに出来上がります」
「じきにって、いつだい?」
「ええ、ですから、もうじき」
「だから、いつだってきいてんだよ」
「......」
 有金君でなくても、言葉に窮します。職人に電話して確かめろ、といわれて、仕方なく加藤さんに電話します。すると、電話の向こうから、
「そうさな、まだ、これから水通しして裁つから、どう急いでも4、5日はかかるな。もっと早くやれってんなら、いまやっているのを後回しにしてもいいぜ」
「あ、そうですか、もう、じきに出来上がるんですね。では、よろしくお願いします」
「なにいってんだよ、すぐには出来ないといってるんだぜ。いまのを後回しにしてもいいけど、段取りがくるうから、どっちも早くはならないよ」
「それじゃあ、お客さまにはそう申し上げますから、なにぶん急いで」
「だから、急ぐもなにも、これから手をつけるっていってるだろ」
「出来上がったら、取りに行きます」
「まだ、出来上がんないよ。客に、そういってやれよ」
「ありがとうございます。では、また」
「ではまた、じゃないよ。なにきいてんだい。まだ、なかなか出来ないっていってるのに」
 ガチャン、と有金君は電話を切ります。
「やはり、もうじき出来上がるから、もうしばらくお待ちいただきたいそうです」
 こんなやりとりを、連日くり返すことになります。ワイシャツの担当になると、痩せるか、胃が痛くなるといわれていました。
 市川さんは、引き受ける数がすくなかったときは、納期がきちんとしていました。しかし、ひとりでやる仕事には、できる分量があります。加藤さんのように、3カ月おくれても平気でいられる職人なら、マイペースをくずさずにやったのでしょうが、市川さんは下職をつけて、仕事を手伝わせました。
 こまかい仕事は市川さんがやって、おおまかな、袖を本体に縫い付けるのだとか、カラーを縫い付ける仕事をさせました。これなら、市川さんの手が、いくぶんか省けるようにおもえました。ところが、そうはなりませんでした。
 夜、市川さんが、カラーをいちいち取り外しては、また取り付けているのを見て、おとうさんがいいました。
「なんでおまえ、下職にさせた仕事をやり直しているんだ?」
「気に入らないから」
 市川さんは、下職が縫い付けた衿や袖を、きれいに取り外して、自分で付け直しました。
「そんなことをするなら、下職なんかいらないじゃないか」
 おにいさんもいいました。
「うん、それもそうだね」
 市川さんはそう答えましたが、それからも当分のあいだ、下職をやめさせませんでした。ぼくが、前に、優秀なひとは後進を育てられない、といったのは、じつにこのことなのです。
(つづく)