閑話

 ワイシャツに関するトラブルは、じつに無数にあります。それを、担当者は、ひとつひとつクリヤーしていかなくてはなりません。しかも、問題はいつも山積していて、すこしも予断を許しません。衣類のクレームだけを取り上げても、うんざりするくらいあるんですから。
 ぼくが処理させられたクレームのなかで、あれは説明のしようがなかったなあ、とおもえるのは、日本橋支店の入っていたデパートの顧客からのものでした。
 ある日、日本橋の女子社員から電話があって、お客様が怒ってどうにも収集がつかなくなった、といってきました。支店で販売したイタリー製のブルゾンの洗濯表示が、全部バツになっているというのです。
 衣類の裏側の裾のわきのあたりに(場合によっては、衿に)、洗濯表示は付いています。アイロンは何度くらいでかけろ、とか、漂白剤は使ってはいけない、だとか印刷してあります。それが全部バツということは、洗濯できないブルゾンだということになります。これって、売ってはいけない商品の部類に入りますよね。申し開きできっこありません。それなのに、日本橋の女子社員は、あろうことか、本店の電話番号とぼくの名前を、先方に教えてあるといいました。こうなったら、先方から電話がくるのを待つより、こちらから電話するしかないじゃありませんか。ぼくは、支店からそのブルゾンが届くのを待って、電話しました。
 電話の向こうで、すこし甲高い声の主婦は、さかんにまくしたてました。なぜ主婦だとわかったかというと、二言目には、うちの主人が、うちの主人が、といったからです(余談ですが、編集者の中村さんのご主人は詩人です。中村さんは、ご主人の話なんかしませんが、もし、ご主人のことを、うちの詩人が、うちの詩人が、といったとしたら、なんだか、そういうのって、とても素敵じゃないかなあ)。ぼくは、じっと相手のいうことをきいていました。へたに口をはさもうものなら、火に油をそそぐようなものですから。
 ひとしきり話し終えると、相手は、ふう、といいました。ぼくがなんていうか、手ぐすね引いて待っているような気配がします。
「ほんとうに申しわけございません」
 ぼくは、素直に謝りました。だって、それしか方法はないではありませんか。なにしろ、洗濯しちゃいけないブルゾンなんですよ。そんなもの、ぼくだって腹を立てるでしょう。インチキみたいなものです。
「そのメーカーは」と、ぼくはいいました。「上流というか、いい方ばかりのために着るものをこしらえているメーカーなのだとおもいます」(ほんとにそういうメーカーもあります)
「だから?」
「えー、たとえば、アラブの石油王とか、アメリカの大金持ちとか、イギリスのお城に住んでいるような方だとか、そのような特別の人たちは、いっぺん着ると、洗濯なんかしないで、もう着ないんです。ですから、洗濯を必要としませんから、表示に洗濯ができないとあっても、ぜんぜんオーケーなわけです」
「ふーん。あなたのいうことにも、一理あるわね。そういうブルゾンだから、あきらめて、洗濯せずに着捨てろということなの?」
「はあ、まあ」
 相手は、しばらく無言でした。沈黙が、ぼくをおしつぶそうとしました。
「もういいわ。すっごく腹が立ったから、だれかをいじめてやろうとおもったの。だって、洗えないブルゾンよ、高かったのに。責任とりなさいよっていってやるつもりだったの。でも、もういいわ。世の中には、そういう商品もあるということね」
「そうですね、私も驚きましたが」
「主人にいって、あなたは貴族のブルゾンを着ているのだから、着ているあいだだけでも貴族でいてねっていうわ」
「はあ、それは?」
「いいわよ、もう。あきらめてあげるわ。でも、あなたって、ほんとに頭がいいか、じゃなければとっても嘘つきね」
 恐縮です。
(つづく。脱線ばかりですみません。ワイシャツのクレームの話は、また次回に)