続々・ぼくの歯の話

 歯茎に注射針が刺さり、イタイ、とおもっているうちに何か所もつぎつぎに刺されて、やがて感覚がなくなって痛みを感じなくなる、というのがこれまで経験した麻酔注射でした(どうでもいいことですが、痛かったらいってください、といいながら、口をあけさせられたまま、イタイデシュ、と訴えても、もうちょっとで済みますから我慢してくださいね、とかいってけっしてやめようとしないのは、あれはどういう了見かね)。しかし、鈴木歯科ではおおいに違っていました。
 歯茎になにか触れたのは、たしかに感じました。ところが、ぜんぜん、痛くないのです。これからか、とおもっていっそう身体に力が入りましたが、一向に痛くなりません。
「はい、麻酔は終りましたから、うがいしてください」
 と、看護士さんがいいました。
 え? とおもいながら水を口に含んだら、なるほど、口のなかはしびれています。こんな麻酔ははじめてです。
「それでは、仰向けに寝ていただきますよ」
 ぼくのすわった椅子は、長く伸びて、ベッドのようになりました。
「口をあけて。すぐですからね」
 ぼくは、大きく口をあけ、しっかり眼を閉じました。これまで、1度として、治療中に眼をあけていたことはありません。かたく眼をつむって、いま自分の口のなかを通過している、いわば握りこぶしほどの大きさの台風を、じっとやりすごすことに専念してきました。
 歯をなにかが掴もうとしているのが、顎に伝わる振動でわかりました。
 昔、大学には入ったばかりの頃、町の歯医者さんでは手に負えないというので、紹介状を持って大学病院に歯を抜きにいったことがあります。鋭い注射針が、歯茎になんども突き刺さり(歯と歯茎の隙間に挿入される針は、飛び上がるほど痛かった)、いいかげん感覚がなくなったはずなのに、ペンチのような器具で上の歯をはさまれてグイグイ揺すられると、どこか遠くのほうがかすかにうずくのを感じました。この歯は、普通の歯の裏に、1本余計に顔を出した歯のようで、おまけのくせにレントゲンで見ると、根が上に向かって長く伸びていました。
 この歯を抜くのに、3人がかりで20分かかりました。グギギギギ、といういやな音が何度も耳のなかにこだまして、やがてグキッと不気味な音がひときわ大きく響くと、ようやくのことで抜けました。抜けたとき、ちょっと歓声があがり、まわりの先生たちから拍手が起こりました。といっても、腰かけていた当事者のぼくは、きまりわるかっただけですけど。
「こんなに歯の根が長いと、上に突き抜けて、鼻の奥までつながっていたかもしれないな」
 いちばん年輩の先生がいいました。「どうですか、フガフガしませんか?」
 ぼくは、口をむすんだまま、鼻でこきざみに息をしてみました。どうやら、口と鼻はつながっていないようでした。
「だいじょぶそうです」
 2番目に年輩の先生が、トレーにのった歯を見せました。
「ほら、ごらんなさい、あなたの歯です。こんなに根の長い歯はめずらしい。よろしければ、標本にしようとおもうんですが」
「ええ、どうぞ」
 あのとき、もらって帰って縁の下に放りこんでおいたほうが、その後の展開がよかったような気がします。
(つづく)